一次BL小説置き場

自作のBL小説置き場です。

甘い毒の寵愛

 ボサボサで伸び放題だった赤い髪は綺麗に洗われ櫛で丁寧に梳かれた、複雑に結われ、後れ毛がうなじのあたりをくすぐった。
 豪奢な室内には甘い匂いのする香が焚かれている。
 シアンは所在なげに部屋の中央に立って、目の前にいる青年の視線から目を逸らした。
 青年の金色の美しい髪が、部屋の明かり用に置かれた蝋燭の灯が揺れるたびに柔らかい水面のように波紋を描いて見える。
 その双眸は吸い込まれそうな紺碧色をしていて、睨み付けられているとそれだけで傷つけられそうだ。
 彼の隣には茶色の長い髪を緩く一つに束ねた従者が立ち、シアンをじっくりと観察している。
 居心地の悪さに嫌な汗が背中を流れた。
 部屋の中には控えめだが壮麗な装飾品が飾られ、その中でもひときわ存在感を放っているのが天蓋のついた大きなベッドだった。
 ここへはほぼ、拉致と言っても過言ではない連れ方をされた。
 突然、奴隷として働いていた屋敷の主人に呼ばれ応接室へ行くと、いま目の前にいる従者が待っていた。そしてなんの説明もなく、その従者が乗ってきたと思われる馬車に乗せられここまで連れてこられた。
 馬車の中でも従者はずっとシアンをジロジロと見ては、小さくため息をつきたまにブツブツと独り言を言っていた。
 シアンとは一言も話さないまま目的の場所に着くと、長く着ていたせいで汚れて、あちこち破れた服を湯殿で脱がされ、頭の上から足の指の一本一本までを丁寧に洗われ、すすけていた赤い髪はすっかり元の燃えるような赤い色の柔らかい手触りに戻り、身体の垢も流されすっきりとした。
 洗ってくれたのが自分よりも遙かに年上の侍女数名だったのが恥ずかしかったが、肌触りの良い絹の服を着せられた頃にはあまりの手際の良さに恥ずかしがっていたことも忘れてされるがままになっていた。
 伸びて邪魔になったら自分で切っていた赤い髪に櫛を通され、器用に編まれると鏡の前に立たされた。
 そこには身なりの良い少年が映っていて、自分のはずなのにそうは思えず何回も鏡を見直した。
 湯殿を出ると従者が待っていた。従者はシアンの姿を見て、満足そうに笑んだ。
 そしてこの部屋まで案内され中に入ると、金髪の青年が椅子に腰を掛けて待っていた。
 ここがどこだかは見当が付いていた。馬車の中から見た景色は奴隷として働いていた田舎町より遙かに繁栄しており遠くには話でしか聞いたことのない王宮が見えた。馬車が王宮へと近付いていく。そのすぐ近くには大きな街があり、たくさんの出店が並んでいた。
 賑やかな声が響く中を馬車はゆるやかに走り、着いた先は王宮への入り口の大きな門だった。
 その後は湯殿まで足早に連れて行かれ今に至る。
「王子、本当にこの者が……?」
 従者が椅子の肘掛けに頬杖をつく青年に訝しげに問うた。
「さぁ……。それはやってみないことにはわからぬ」
 王子と呼ばれた青年に従者は困った顔をする。
「もういい。下がれ」
「しかし……」
「人の情事を見る趣味があるなら別だが?」
 青年は従者にあざ笑って見せる。従者は少し顔を赤くしてそそくさと部屋から出て行った。
 部屋にはシアンと青年だけになり、シアンはますます居心地が悪くなった。
「名前は?」
「え……?」
「名前を訊いている」
「……人に、名前を訊ねる時はまず自分から名乗るべきだ」
 青年があまりにも偉そうにするので、何も聞かされずに連れてこられたシアンはなんだかムッとした。
 従者がこの青年を王子と呼んでいたし、ここは王宮。つまり彼はこの国の王の息子ということになる。そんな相手に反抗的な態度をとれば罰を受けてもおかしくはないが、もともとは奴隷の身分。いつ主人の逆鱗に触れて罰を受けるかと毎日怯えて暮らしていた。
 その主人より身分の高い相手。どうせ罰を受けるのならおとなしくしているなんて馬鹿馬鹿しい。
「それもそうか」
 青年はシアンを見て、ククと笑って足を組んだ。
「ノアだ。ノア・オーウェン
「……オーウェン……?」
 その名を知らぬ者はこの国にはいない。王族の姓だ。
「俺はこの国、ユノヘス王国の第三王子だ。それで、おまえの名前は?」
 どうして田舎町のただの奴隷がこのような身分の高い者の目の前にいるのだろう。
 奴隷のシアンには選択肢などない。言われるがまま従うだけだ。そうやって従って生きてきただけなのに、いつの間にかこんなところまで来てしまった。
「シアン……」
「シアンか。こちらへ」
 困惑しながらもシアンはゆっくりと王子の元へ近付いた。身体中が小さく震えていた。今からなにをされるのか予想もできなかった。
 身を綺麗に洗われて質のいい服を着せられたのだから殺されるようなことはないとは思うが、世の中にはいろいろな嗜好の人間がいる。この王子が偏った嗜好を持っている可能性だってある。
 王子のそばまで近付くと、顔色が悪いのが見て取れた。蝋燭の揺らめきのせいかとも思ったが、呼吸も少し荒く肩で息をしていた。
「あの……気分が悪いの?」
 訊くと王子は指先だけを動かし、もっと近寄るように指示した。
 怖ず怖ずと王子のすぐ目の前まで近付き顔色を確認する。 
「シアンと言ったな。おまえが本当にセシルの言う通りなら……」
「セシル……?」
「さっきの従者だ」
 王子の手がシアンの頬に触れた。その手はとても冷たく、まるで死人のようだった。
 冷たい指先がシアンの赤い髪を梳き、グッと後頭部を押さえ込まれ次の瞬間、冷たい唇がシアンの唇を塞いでいた。
「んっ……!?」
 突然のことに抵抗するのを忘れてしまう。
 その舌がシアンの口内にぬるりと侵入してくる。
「んんっ……!?」
 生々しい感触に鳥肌が立ち、後頭部を押さえる王子の腕を掴んで抵抗するが、貧弱なシアンの力では王子から抜け出すことは不可能だった。
「おとなしくしていろ」
「んっ……」
 シアンの口の中の唾液をすするように貪り付く王子に、シアンは先ほどの王子の言葉を思い出した。
(情事……って言ってた……)
 奴隷ゆえにまともな教育も受けてはいないが、情事が一体どういう意味かくらいは知っている。
 他の奴隷仲間がたまに主人に呼ばれて朝まで帰って来ないことがあった。戻って来たと思うとだいたいが目を腫らして泣いたあとで、それは決まって若い女たちだった。
 もっと幼い頃はわからなかったけれど、成長するにつれ自然と耳に入ってくるようになった。主人が奴隷を慰み者にしているという話を。
 ようやくここに自分が呼ばれた意味がわかった。この王子の慰み者になるためだ。
 なぜ、ただの薄汚い奴隷の自分なんかを。しかも自分は王子と同じ男だ。
 身分の高い者の中には美しい同性を好む者がいるとは聞いたことがあるが、この国の王子がまさかそうだとは思いもしない。
 それにどんなに綺麗に洗っても、痩せすぎで、肌も荒れ、見た目も良いとは言えない。王子の隣に並んだら自分がどれだけ貧相かよくわかる。
「……すごいな」
 口端から零れるシアンの唾液を舌で舐めとった王子はニヤリと口角を上げた。
 いくら奴隷でも、屈辱的なことをされれば怒りもする。相手が王子だとしてもそれは一緒だ。
 キッと王子を睨み付け、力任せに頬を殴りつけた。
 空気を裂くような音が部屋に響く。
「威勢がいいな」
 ひっぱたいた頬がわずかに赤くなっていた。けれど先ほど感じた顔色の悪さはすっかり良くなっており、荒かった息も落ち着いていた。
「唾液だけでここまで回復できるとはな……」
「なにを言って……」
 怒りに震えるシアンの身体をいとも簡単に抱き上げた王子は、部屋でひときわ存在感を示していたベッドへシアンを連れていき、乱暴に落とした。
「我が国の王族の手付きになった者はどうなるか知っているか?」
 自らの衣服を脱ぎながら王子は独りごつ。シアンは上体を起こしながら黙って首を横に振った。そんなことよりも今すぐここから逃げなければ、それこそ王子の手付きになってしまう。
「一度、手が付いた者は一生王宮で贅沢に暮らせる。奴隷だったおまえがなんの不自由もなく暮らせるのだからいい話だろう」
 逃げようとしたシアンの身体をベッドに押し倒し、上に覆い被さるとシアンの着ていた服を強引に脱がした。
「やめろっ……」
 王子がシアンに跨がるといよいよ身体の自由は奪われた。
「なんでっ……」
 なんで自分なのだと言いたかった声は王子の唇で塞がれた。そして蹂躙するように舌を差し入れ唾液をすすり、シアンの舌を絡みとった。
 嫌だと思うのに、王子の舌がシアンの上顎をなぞると頭の中が痺れた。ただの唾液のはずなのに甘いとまで感じ、艶めかしい吐息が漏れた。
 自分から漏れた声に驚き、蕩けはじめていた意識が戻る。
「やっ……」
 身体を捩ると、動けないように両手首を王子の手で拘束され首筋を舐められた。
「おまえは俺の妻としてここで暮らす」
 舌がシアンの肌を這い、王子の手が腰をなぞった。
 ビクンと身体を揺らし「あっ」と小さく声を出すと王子は目を細めて子供がいたずらするかのように笑った。
 腰をなぞる手が足の付け根へと下りていく。
「んっ……オレはっ、男……だっ……」
 はしたなく感じてしまう身体と勝手に漏れる声に羞恥を覚える。
 なんでこんなに敏感に感じてしまうのか。性的なことには疎いシアンだが、同性がその対象だとは思わない。それなのに王子の男らしく筋張った手の動き一つで、こんなにも翻弄されるなんて。
「そんなことは関係ない。オレに従え、いいな」
 拒否権などそこにはなかった。
 王子と奴隷では身分差がありすぎる。この国の次期国王候補の一人である王子の命令に背けるわけがない。
「あっ……やっ……」
「香がよく効いているみたいだな」
「香……?」
 この部屋に入った時からずっと焚かれているあの甘い匂いのする香のことだろうか。王子の言い方だとそれになにか身体を敏感にする作用があるみたいだ。
 だとしたらこれは自分の意思で感じているわけではない。香のせいだ。
(それなら仕方ない……)
 自分にそう言い訳をして吐息を漏らす。
 胸の小さな粒を口に含まれ、じっとりと舐められる。くすぐったかった感触が少しずつ快感に変わっていく。その変化に怖さを覚えて思わず王子にしがみついた。
 太股の内をなぞられると、足が痙攣した。開きたくないのに勝手に両足が開いていく。
 その身体の中心を指先で弄られ、熱が集まっていく。簡単に芯を持つ己自身に羞恥と快楽で涙が溢れる。
 その涙を舐める舌は温かく、チラリと見えた瞳に優しさをみた気がする。
「ふっ……うんっ……」
 中心からも涙のようにぷっくりとした雫が零れ、王子の指の腹がそれを掬い芯を持ったシアンの中心に塗り伸ばしていく。
「ふっ……ああっ……」
 涙を舐めたあと、再び胸の粒を口に含んで舌で転がされ、堪らず腰が浮いてしまう。
 その舌がだんだんと下へと肌を滑り落ちて、シアンの中心へと近付く。
「んんっ」
 シアンの熱の塊を何の躊躇もなく口に含ませそれを強く吸われて、何度も身体が痙攣した。
 良すぎる快感に王子を引き剥がそうと金の髪を掴む。それでも口に含まれた熱は離されることなく吸い上げられ上下される。
「あっ、はっ……やだっ……」
 意識が中心に持っていかれる。脳裏が真っ白になる。
「ああっ……」
 ジュッと強く吸い上げられた瞬間、熱が王子の口の中に放たれた。王子はそれを嫌な顔一つせず味わうように口の中で転がしてゴクリと飲み干した。
「な……なにを……」
「甘いな。薬とは思えない」
「……なに?」
 欲を出したあとの倦怠感が身体を支配して、王子がなにを言っているのか、襲ってくる睡魔と戦いながらなんとか問おうとする。
 しかし王子はその問いには答えず、少しだけ垂れたシアンの欲を掬い、それをシアンのあと孔へと塗りつけた。
「ひっ……」
 あり得ない場所に触れられ、驚きで睡魔が逃げていく。
 枕元の小さな棚に置かれていた小瓶を手に取り、瓶の蓋を開けると王子は手のひらに瓶の中身を出した。
 それは蜂蜜のようにとろりとした液体で、なにに使うのかシアンにも嫌でもわかった。
 液体を絡ませた王子の指がゆっくりとあと孔を解そうとするのを気怠い身体で抵抗しようとしたが、適うはずもなく、グッと指を入れられる。
「やだっ……やだっ……」
 いつの間にか自由になっていた手で顔を隠し、何度も首を横に振った。それでも王子は指を中へと進ませ少しずつ動かして拡げていく。
 圧迫感で感覚がおかしい。
 一本、二本と指が追加され暴かれていく中が急激に熱くなっていく。これも香のせいだろうか。
「これにも香と同じ作用がある」
 シアンの疑問を推察したのか王子が液体の正体を教えてくれる。
(それなら……仕方ない……)
 同じ言い訳をして目を閉じる。もう抵抗する声はでない。
 時間をかけてゆっくりと解れていく後ろが自分の身体の一部とは思えなくて戸惑いを隠せない。
「おまえは俺のものだ」
 低い声で囁かれ、背筋がゾクリと凍った。
 もう逃げられないと悟ると諦めがついて力が抜けた。
「おまえは賢いな。そのまま力を抜いていろ。痛めつけるつもりはない」
 その言葉はとても柔和に感じた。労るような声だった。
 やがて熱い楔がシアンの後ろに宛がわれる。グッと中に楔が突き立てられ一気に侵入してくる。
「うっ、あっ……」
 裂けてしまいそうな大きな熱で鈍い痛みが走る。額に嫌な汗をかき、下唇を噛んだ。
 その唇に王子の唇が重なり、ゆっくりと解かれる。そこにはなぜか慈しみが感じられ、シアンはその熱い塊を奥へと受け入れた。
 王子の熱が内襞にまとわりついてその形を覚えようとする。じんわりと蠢く内襞に王子の熱がピクピクと痙攣している。
 そのままじっと動かないで、王子にしがみついていると耳元で王子が息を吐いた。
 綺麗に結われていた髪が乱れてシーツの上に広がる。
「綺麗な赤だ」
 指先に髪を絡ませ、そこに口付けを落とされドキリとする。
 髪を綺麗だと言われたのは初めてだった。
 真っ赤な髪に口付けをされたのも。
 けれどこの行為にどんな意味があるのか。自分を妻にしてどうするつもりなのか。
 だいたい、妻と言うことは結婚をするという意味ではないのか。王族の妻というものがどういうものかは詳しく知らない。奴隷には教育を受ける権利などない。自分で勉強するしか。
 最初は奴隷生活から抜け出したくて主人に内緒で学習しようとする者もいた。けれどすぐにみんな諦めてしまう。労働がきつくて一日が終わると疲れ切ってすぐに眠ってしまい、勉強どころではなくなるからだ。
 だからシアンの知っている知識は同じ歳の普通の少年、少女たちより少ない。
「あっ」
 しばらく二人とも動かずにいたから油断していた。王子が急に腰を動かしはじめたのだ。
 ゆっくりと王子の熱が引き抜かれていく。ギリギリのところまで引かれた熱に寂しさを覚え、王子を見る。
 王子もこちらを見ていたため、視線が思い切りぶつかった。
 シアンがなにを思ったのか、王子には筒抜けだったようでシアンは顔を真っ赤にした。
 抜かないでくれ、と懇願する視線を投げかけると王子はそれに応えるかのようにギリギリまで引き抜いた熱を勢いよく奥まで突いた。
「ああっ……」
 腰を浮かせてその衝撃を全身で味わった。
 目の前がチカチカとする。
「痛くないか?」
 荒い息を吐きながら王子が問う。
「は……あ……わか、ない……」
 内臓が圧迫されるような息苦しさに短い呼吸を繰り返す。
 本来ならなにかを入れる場所ではないところに入っている王子の熱が腰の動きに合わせて出入りする。
 抜けるか抜けないか、そんなギリギリの場所ばかりを執拗に突いてはシアンは焦れて王子を見やる。わざと焦らしていることは王子の表情を見ればよくわかる。
「あ、ああっ……や、やだ……」
 香油のせいなのか繋がっている場所がじんじんとしてきて、もっと強い刺激を求めはじめている。
 初めて男に抱かれたのに、こんなに簡単に中まで入り、じわじわと快楽まで感じるようになるなんてあり得ない。香油の成分が身体の感覚をおかしくさせているとしか思えない。そうであってほしい。
 でなければ自分はとても淫らな人間なのだと認めてしまうことになる。
「あっ、やっ、あっ……」
 散々焦らされたあと、熱はシアンの中を抉るように奥へと入り、激しく腰を打ち付けてくる。
 ベッドの上で腰の動きに合わせて揺れる身体は知らず知らずのうちに気持ちの良い場所を探して自ら動いていた。
 入り口付近から、最奥へ。何度も行き来する熱と、香油。
 王子が腰を振るたびに水音が響き、シアンの鼓膜の奥まで犯していく。
「はぁ……あ……」
 王子から汗が落ちてくる。
 その汗を拭うように手を伸ばして、王子の乱れた髪をかき上げると紺碧色の瞳がシアンを射貫いた。
 その瞳の強さと深い色に少しだけ残っていた理性が崩壊した。
「王子……おねが、いっ……」
 焦れた身体は熱病に魘されたように燃えていた。
 その赤い髪の色と同じくらいに。
「もっと奥……」
 自ら身体を捩って王子の塊を誘い込む。
 奥へ、もっと奥へと。
「はっ、あっ、ああ……」
 シアンの無自覚の誘惑に王子の楔も一層、屹立しシアンの中を蹂躙する。
 ポタポタと落ちてくる汗がシアンの胸に落ち、それすら刺激になってビクビクと痙攣する。
 グッと奥の一部を抉る王子の楔に強烈な衝撃を受け、叫び声に似た喘ぎを漏らす。
「ここがいいのか?」
 耳元で囁く王子の声は艶めかしく、シアンの背筋がゾクリと粟立つ。
「そこっ……そこ、いいっ……」
 もっとして、と呟くと王子はニヤリと笑んだ。
 シアンの腰を掴み、執拗にその箇所を攻める。抉られて身体がベッドの上で何度も跳ねる。攻め立てられるたびにおかしくなっていく。
 これが快楽。人間の欲望の一つ。
 奴隷でいたら知らないままだったかもしれない、最高の愉悦。
 王子の息が上がっている。腰を掴んでいた手がシアンのモノを握り香油で濡れたそこを扱いていく。
 ――溺れてしまう。
 王子から与えられる快楽に溺れて、ベッドの海に沈んでいく。
 海なんて見たこともないのに、目を閉じると瞼の裏に海が見えてくる。それは王子の瞳の色と同じ色をしていた。
 波に飲み込まれて浮遊する身体。
 気持ちいい。気持ちいい。もっと気持ちよくなりたい。
 頭の中はそればかりで、他には何も考えられない。
 グリ、と抉られた箇所と扱かれてしとどに鈴口から溢れる蜜。
「やっ、も、イくっ……出ちゃう……出っ……」
 首を横に何度も振りながら絶頂を迎える瞬間を回避しようと試みるが、王子は動きを止めずにさらに攻める。
 動きが強く速くなる。意識が飛んでしまいそう。
「ああっ……!!」
 真っ白になった瞬間、二度目の欲を放ち身体の奥に熱いものを感じた。王子もシアンの中で達し、力尽きてシアンの上にのしかかった。
「……はぁ……はぁ……」
 呼吸が荒いままの王子の背中にそっと手を回してみる。
 王子の肌はしっとりと汗をかいていて、シアンの手にピタリと吸い付くようだった。
 奥の方がまだ熱くて、溶けだしてしまいそうだ。
 吐き出された熱がじんわりとシアンの中に広がる。それが何故だか心地よくて、微睡みはじめると中に残されたままの王子自身がピクンと反応してまた堅さを取り戻した。
「まだ寝るな」
「え……」
 ぼんやりとしていたシアンの中を再び王子の熱が動き出した。
 香油と王子の欲が混ざった液体が淫猥な音を立てはじめた。
「まだだ」
「ちょ……あっ」
 繋がったまま身体を持ち上げられ王子の膝の上に座らされる。不安定な姿勢に王子の首に巻き付いた。
 王子の手がシアンの赤い髪をかき乱す。乱暴なその手つきがやけに情熱的で情欲を煽り立てる。
「はっ、あっ……」
 下から突き上げられそれまでとは違う箇所を突かれる。
 ずっと深い奥へと楔が入り込んで、また新しい刺激を与えられる。
 熱い欲がその中に放たれ、どくどくと脈打つのを感じながら三度目の絶頂に落ちる。
 このままずっと抱き合っていたい。もっと淫らに荒れくれていたい。
 無理やり、陵辱されて快楽を植え付けられてしまった。嫌なはずなのに拒絶できない。
 もうこの身体は元には戻らない。戻れない。
 求めあう悦びを知ってしまったから。
 


   ***

 

 喉がカラカラに渇いて目が覚めた。身体が重く、寝返りを打つのもつらい。
 それでもなんとか寝返りをしてみると隣にはノア王子が眉間に皺を寄せたまま、まだ眠っていた。
 夢ではなかった。この身体は今ここで眠っている王子によって陵辱されたのだ。それだけではない。香のせいか、あの液体のせいか、自分から求めるように腰を振ってしまった。
 快楽にいとも簡単に流されてしまった。知らなかった。身体を繋げるという行為がこんなにも気持ちが良いだなんて。
 物思いにふけっていると部屋の扉がコンコンと鳴った。その瞬間、熟睡していたはずの王子の目がパッと開き、シアンを見た。
「あ……おはよう、ございま……」
「ああ」
 上体を起こして一言そう答えると、王子はシアンから視線を逸らした。
 扉が開かれて部屋の中に従者のセシルと数名の侍女が入ってきた。
「おはようございます、王子」
「ああ」
「お体の調子はいかがですか?」
 セシルのその問いには答えず、王子はベッドから抜け出す。シアンはまだ王子が一糸まとわぬ姿なのに気が付き慌てて視線を外した。
 昨夜の王子の表情や息遣い、その腕の逞しさや熱を思い出して頬が赤くなる。
 侍女たちは慣れた手付きで王子に服を着せ、手早く身支度を済ませる。
「シアン、おまえも身体を湯で流して身支度をしろ」
「は、はい」
 王子はそのまま部屋を出て行き、シアンは侍女たちの目を気にしながら昨夜着ていた服を探した。侍女たちは落ちていた服を拾うと、それとは別の服を出しベッドに座ったままのシアンに着せはじめた。
 人に服を着させてもらうのは慣れない。彼女たちの仕事だとわかってはいてもやはり恥ずかしい。
 しかし嫌がっていたら彼女たちに迷惑をかけてしまうので恥ずかしがりながらも服を着て、昨夜使った湯殿まで連れていかれ、また丁寧に身体を洗われた。
 色鮮やかな服を着せられ、髪を結われたあとまた元の部屋に戻ると待っていたセシルに柔らかなソファーに座るように促された。
 すぐに侍女たちがセシルとシアンの間に置かれたテーブルに朝食を持ってきた。
 並べられた食器は二人分。どうやらセシルと二人で食べるらしい。
 食べたことのない色とりどりの野菜や果物、パンやスープ。とても二人だけでは食べきれない量だ。
「あの……」
「なにでしょう」
 パンを一つ手にしたセシルに怖々と訊ねる。
「こんなに食べられません」
 奴隷がこんな量の食事をもらえることは死んでもないだろう。それを朝の一食で摂ろうとしているのだ。
「残しても構いません。食事の作法は?」
「……知りません」
 知るわけがない。誰がそんなことを教えてくれるというのか。
 セシルはシアンが奴隷だと知っていて、わざとそんなことを訊いてきたのだ。
 初対面の時からセシルには好かれていないとは感じていたが、この意地悪な問いで嫌われているとはっきりした。
「自由に食べなさい。作法はおいおい教えましょう。ああ、他にもいろいろと教えることが……。貴方に今、必要なのは教養ですね」
 淡々と食べながら話すセシルはこちらを一切見ようとしない。空気が重い。昨夜の行為のせいで身体中が軋んでいて食も進まない。
 それでももったいなくてなんとかスープを胃に流し込み、パンを囓る。こんなに美味しい食事は初めてだ。いつもは硬いパン一つと蒸しただけの芋だったり、冷めたスープの残りだったりで美味しいとはほど遠いものばかりだ。
 これが王族の食事。選ばれた者たちの。
「セシル」
 扉が開かれ慌ただしく王子が部屋に入ってくる。
 起きた時は良かった顔色が今は酷く悪い。一体この少しの時間で王子になにがあったのか。
 王子はシアンの隣に腰掛け、そのまま強引にシアンを引き寄せ唇を奪った。
「んっ……」
 いきなりなんだというのだ。いくら従者といえど、他人にこんな場面を見られたくない。
 唇をギュッと引き結んで抵抗するが、王子の手がシアンの顎を掴んで無理やりこじ開ける。そのまま王子の舌が口の中に入ってきて唾液を吸い上げる。
 全身が昨夜の行為を鮮明に思い出して甘く痺れる。
 歯列をなぞり、上顎を舌先で刺激して強く吸って貪る。
 シアンの口の中を全て喰らいつくしそうな深い口付けは、ただ乱暴なだけではなく時折、シアンを気遣っているようにも感じた。
 持っていたパンが手からポトリと落ちていく。
 ようやく唇が離れると王子の顔色は先ほどより良くなっていた。
 頭の中が蕩けた状態でぼんやりと王子を見つめる。
「セシル、そんな目で見るな。間違いなくシアンは薬だ」
「そうみたいですね……」
「なにがそんなに気に入らない? おまえが見つけてきた文献の通りだっただろう? これで俺の身は安全だ」
「そうですが……彼は奴隷です」
 なんの話をしているのか理解できないが、セシルがなぜ、自分を嫌っているのかはわかった。奴隷の分際で王子の手付きになったのが気にくわないのだ。
 王子はソファーに背をもたれさせ、優雅に足を組んだ。
「奴隷も人間だろう。俺は奴隷制度はもう古いと思っている」
「王子……」
 意外だった。
 王子ともあろう身分の人間が、奴隷を侮蔑せず制度すら否定するとは。
 王子は奴隷を見下して、いたずらに陵辱したのではなかった。
「あのっ……」
 下に落ちたパンを拾いながらシアンは思い切って声を上げた。
「なにだ?」
 王子がシアンの髪を一房手に取ってクルクルと指に巻き付けて遊ぶ。その指からは愛情にも似た体温が伝わる。
「オレっ……全然、意味わかんないんですけど!!」
 王子はシアンの顔を見てキョトンとしていた。なにを言っているのだ、こいつは、と言わんばかりに。
「セシル、説明はしてあるのだろう?」
「いえ……何も話してはおりません」
「何も? なぜ、何も話してない?」
 怪訝な様子でセシルを見る王子の目が一瞬、冷たく尖ったようにシアンは感じた。
「あの文献が本当かどうかわからないまま奴隷に現状を話すのはあまりにも無謀かと判断しました。真実とわかればその時に説明するつもりで……」
「勝手に判断をするな」
 冷たく低い声がセシルの言葉を遮った。セシルは顔を青くして「申し訳ありません」と小さく返事をした。
「……なら俺は何も知らない者に無体なまねをしたということか」
「王子、それはっ……」
「黙れ」
 キッとセシルを睨み付けるとセシルは肩を震え上がらせた。
 王子はシアンに向き直り、その怒りの表情からは予想できないくらいの優しい手つきで頭を撫でた。
「端的に説明する」
「は……はい」
 ソファーにシアンを座り直させると王子はまたその赤い髪を指でクルクルと巻き付かせて弄りだした。
「今更、敬語もいらないだろ? 堅苦しいのは抜きで話そう」
「は……はい、あ、いえ、う……うん?」
 いきなりそう言われてもすぐには切り替えられない。たどたどしく返事をして上目遣いに王子を見れば可笑しそうに口角を上げていたので少しホッとする。
「俺もさっき朝食を摂ってきた。いつもはもう少し早く起きて身支度をするんだが今朝はゆっくり寝過ぎてしまって時間がなかったからおまえを置いていって悪かった」
「は……え……」
 なんと言えばいいのか見当もつかない。
 寝過ぎたのは昨夜の行為が朝方まで続き、疲れ果てて眠ったせいで王子が謝る必要はない気がする。最初は抵抗していたもののシアン自身も王子を受け入れ、香や香油の効果を差し引いても快楽を拾い溺れたのは事実で、そこに嫌悪感は不思議となかった。
 最終的に合意のもとで身体を重ねたのだ。
 それに王子なのだから何かと忙しいのだろう。置いていかれたとは思わなかった。侍女たちが甲斐甲斐しく世話をしてくれたし、朝食も用意してもらった。扱いになんの文句もなければ、身の丈に合わないほどよくしてもらっている。
 ただなぜ、奴隷の自分がこのような扱いを受けられるのかがわからなくて、なにかとんでもない裏があるのではと不安なのだ。
「これは内々の話だが、一年ほど前、王と王妃が仲違いをしたことで王が政へのやる気をなくし退位すると言い出した」
「退位って……王様をやめるってこと?」
 シアンの質問にコクリと頷き、王子は話を続ける。
「俺の食事には毎回、毒が仕込まれている」
「え……」
 当たり前のようにサラリとそう言った王子はフッと自嘲するとテーブルの上のパンを手にした。
「これには入ってないから安心しろ。他の誰の食事にも入っていない。俺だけだ」
「な、なんで?」
「そりゃ、命を狙われてるからに決まってるだろ」
 あまりにも軽く言うものだから冗談にしか聞こえなくて戸惑い、従者であるセシルをチラリと見た。セシルは厳しい表情でシアンを見返した。
「今の王位継承順は俺が一番目だ。要するに俺が死ねば次期国王の座が近付く奴らに毒殺されそうになってるってわけだ」
「えっ、ま……待って……混乱して……」
 確かこの国の王位継承権は王の子供、その中でも男子のみだったはず。教養のないシアンでもそのくらいは知っている。
 男子の中でも長男が第一王位継承権を持ち、以下、次男三男と続く。現国王も第一子だ。
 ノア王子は第三王子だと言っていた。だから本来なら王位継承権は第三位になる。なのに一番目とはどういうことか。上の兄たちが亡くなったのであれば権利が一番目になるのはわかるが、そんなことがあれば国中が喪にふくすため奴隷のシアンの耳にも入る。
 それに、そのことと自分がどう関係しているのか。
「一番上の兄は幼い頃から体が弱く国を統治するのは無理だと自ら権利を放棄した。二番目の兄は健康だっったが毒を盛られ療養中だ。毒のせいで視力を失ってしまったから権利は一番目のままだが療養が終わり落ち着き次第、権利を放棄すると言っている。だから実質、第一王位継承者は俺になる」
 シアンには違う世界の話しすぎて、ポカンと口を開いたまま王子が話す事実を聞いているしかできなかった。 
「毒を盛った犯人を捕まえても黒幕を吐くことなく自害されてしまう。しかも一人だけではない、何人もに狙われている。捕まえても捕まえてもきりがない。毒味係を置いても次々に死なれ、毎回いろんな毒を盛られているせいで解毒薬も効きづらい」
「王族は幼少の頃よりある程度の毒には慣らされています。しかし最近王子の食事に使われている毒はまだ解毒薬が出回っていない新種の毒薬のようで我々も頭を抱えております」
 補足するようにセシルが付け足し、今の状況がかなり危機的なものだということが理解できた。
「じゃあ、王子がさっき顔色悪かったのって、その食事のせいだったり?」
 朝起きた時は元気に見えたのに戻って来たら酷く顔色が悪かった。それも食事で毒を盛られたからだとしたら、相当強い毒なのではないか。
「その通り」
「え、だったらなんでそれ食べるんだよ? 違うの食べればいいんじゃないのか?」
「食事の時間はこの王宮に住む王族ができるだけ全員集まる。王位を狙う者が俺が毒で苦しんで死ぬ姿を今か今かと待っている席だ。もし俺がその席に行かなければそいつらは俺の命があと少しだと思うだろう。そして致命的な量の毒か、または寝込みを襲われるか。方法はいくらでもあるが弱ったところを暗殺とわからないように手を下すつもりだろう」
「そんな……そんなこと簡単にできんの?」
 もっと警備が厳しいものだと勝手に思い込んでいた。王族同士が表では何にもない顔をして裏で王子を暗殺しようと企むなんて、そんなことが起こる国ではないと。
「実際、二番目の兄はそれでじわじわと身体を蝕まれ視力を失った。視力を失った王など国をまとめられるわけがないと他の王族たちに言われ権利を放棄するようにと言われたんだ。命まで奪われなかったのが幸いだと思うしかないと兄は笑っていたが悔しかっただろう。俺になんとしてでも王になれと……」
 なんと声をかけたらいいのかわからずシアンは下唇を噛んだ。
「俺たち兄弟は仲が良かったからな、王位継承で争うことはないと兄たちも俺も安心していた。それがまさか兄弟以外の身内に狙われるとはな……」
「なかなか証拠が出ないのが口惜しくて仕方ありません……」
 セシルは自分の腕を爪が食い込むほど強く掴んだ。
「まぁ、俺も敵に弱っている姿を見せるのは嫌なもんだから毒が入っていると知っていても平気な顔して食べているが。今の俺ができる抵抗はそれくらいしかない。これ以上、毒味係を犠牲にしたくはないからな」
「王子は優しすぎます。王子のためならば命を捨てる者はいくらでもいるのですから、毒味を置くべきなのです!」
 セシルの言うことはもっともだとシアンも思った。国の王子の命を守るためなら喜んで毒味する者はたくさんいるだろう。しかも二番目の王子が毒で命を狙われたあととあらばなおさら。
「これ以上、毒味は置かない、絶対だ」
 それは王子としての命令だった。強く言われセシルはそれ以上、何も言えなくなった。
「今犯人を捜すつもりはない。捜しても意味はない。俺が王位継承権を放棄するか、死なない限り命を狙う輩はどんどん出てくる。今の王族は腐っているんだ」
「じゃあ、ずっと王子はこのまま毒を盛られ続けるのか?」
 せっかくの美味しい料理もそれでは味なんてしないだろう。その一口が王子の身体を蝕んでいくのを、王族の誰かは食事のたびにほくそ笑んで見ているのだから。
「まさか。やられっぱなしは性に合わない。俺は必ず王位を継承してこの国の王になる。そして腐りきった王族の体制を一掃してやる。膿は全部出し切る。それが今の俺の役目だ」
 その目には確かに大きく強い意志が宿っていた。
 シアンはそこに何者にも屈しない、未来の王の姿を垣間見た。
「それでも、少しでも怪しい者は排除するべきです!」
 セシルの懇願に王子は堂々とした態度で不適に笑んだ。
「決定的な証拠があればそのつもりだ。しかしまだ証拠がない。それにようやく毒に怯える必要がなくなった」
 王子とセシルが同時にシアンに視線を移した。シアンは問題の大きさに尻込みをして、ゴクリと生唾を飲んだ。
「おまえがここに連れてこられたのは俺を助けるためだ」
「助けるって……毒味をしろってことじゃなくて?」
 毒味はいらないと言っていたばかりだ。それにただ毒味するだけなら口付けする必要も、抱く必要もない。やはり慰み者として呼ばれたのだろうかと顔を顰める。
「おまえのその赤い髪。おまえ以外にそんな髪の色の人間を見たことはあるか?」
「髪……?」
 侍女によって複雑に結われた髪に触れてみる。綺麗に洗ってもらって触り心地も良く、髪の色に合わせた衣装のおかげで艶やかに映えている。
 ここに来るまではこの色は目立ちすぎて好きではなかった。奴隷同士で喧嘩などあれば何もしていないシアンが「そこの赤い髪!」と呼ばれて叱られるのだ。だから目立たないようにとわざと砂を被って汚れて見せていた。少し灰を被れば赤はすすけて見えて目立たなくなる。
 燃えるような、炎のような、赤。
 見る者が見れば不吉だと思うだろう。
 この赤い髪が珍しいから呼ばれたということなのだろうか。わざわざ従者が迎えに来るほどとは到底思えないが。
「セシルが王宮の山ほどある古い書物を調べてようやく見つけた古い文献に書かれていた。かつてこの国を建国した初代ユノヘス国王は敵が多く常に命を狙われていた。ちょうど、今の俺のように」
「それがなにか関係あるのか?」
「まあ、聞け。――しかし、王はどんな襲撃にあっても生き延びた。剣の腕が抜群で策略を巡らすことにも長けていた。そしてどんな猛毒を盛られても平然としていた。その王の隣にはいつも赤い髪の女がいた。王の妻だ」
「……赤い……髪……」
 小さな田舎町しか知らないシアンだが、同じような髪の色の人間は見たことがない。
 この国の王や騎士を主人公にした英雄譚は数多くあり、奴隷の身分でも知っている話はいくつかある。しかし、初代国王の妻の話は聞いたことはなかった。
「初代国王の時代、この国には赤い髪の一族がいた。その一族は不思議な体質をしていた。どんな強い毒も無効化する力を持っていたのだ」
「毒を……?」
 そんな一族がいたこともきっと誰も知らない。初代国王の妻が赤い髪だったことも。
 その一族が本当にいたなら、もしかしたら遠い先祖なのかもとシアンは少しだけ胸を高鳴らせた。
 身内など一人もいないシアンには、そんな古いおとぎ話のようなことでも嬉しく感じてしまう。
「ここまで話してもわからないか?」
「えっ、えっと……ご先祖さまだったらうれしいなーってくらいしか……」
 素直な感想を述べると王子もセシルも深いため息をついて呆れた顔でシアンを眺めた。
「なっ……なんでそんな目で見るんだよっ! いいじゃん、別に! オレ、血の繋がった家族とかいないんだからちょっとくらい夢見たって!」
 初代国王の妻が先祖だなんて本気で思ってはいないけれど、少しくらい血の繋がったなにかがあるかもと想像するくらいは自由にさせてほしい。もし本当に先祖だったなら子孫が奴隷だなんてあり得ないのだから、ただのおとぎ話だというくらいちゃんとわかっている。
「あ、でもだったら王族にも赤い髪の一族の血が混ざってるってこと?」
「いや、その初代国王の妻は建国してすぐに亡くなったと文献には記されている。二人の間には子供もいなかった。初代国王は妻の死後、しばらくして再婚し子を残した。それが今のこの王族だ。赤い髪の一族がどうなったかは文献には記されていないからわからない」
「そっか……」
 せっかく同じ血族かもしれないと期待した先祖は子供を産むことなく死んでしまっていた。他の一族もどうなったかわからないということは、散り散りになった一族の誰かが自分の先祖の可能性がある。
 それを確かめる術は何もないけれど、ただの奴隷でしかなかったシアンにはそれだけでも自分の存在に小さな光を見出すことができた。
「あ、で、結局オレはなにをしたらいいんだ?」
 王子とセシルはまたため息をついた。セシルはとうとう頭まで抱えてしまった。
「おまえは俺がなんの考えもなく手付きにしたと思っているのか?」
「え、違うのか? その文献とやらの一族と同じ髪が珍しくて手込めにされたのかと……」
 この王子は初代国王に憧れを抱いていて、その妻と同じ赤い髪の人間を横に置いてまねしたかったんだな、と王子の話を聞いて結論づけていたシアンはそれが違うとわかりいよいよ自分がここに呼ばれた理由がわからなくなって首を傾げた。
「自分をそんなに卑下するな。俺には奴隷も赤い髪も同じ国の民だ」
 自分の存在をまるごと肯定されたみたいでシアンは目を大きく見開いた。
 今までこんなふうに言ってくれる人はいなかった。奴隷はどれだけ必死に働いても一生奴隷。何も生み出さないし、何も残せない。
 存在自体、人間とはみなされていない。
 それでもなんとか生きてきた。奴隷なりに意地があったし、最初から全てを諦めたくなかった。
 真面目に頑張っていれば、どんな酷い目にあってもいつか報われるのではないかと心の隅でずっと思っていた。
 王子に陵辱されても、途中から自分の意思で足を開いて受け入れても、人前で貪るような口付けをされても。
 だけど、ほんの少しだけ心が折れる時がある。この心が何も感じないくらい傷付いて粉々になったらどれだけ楽だろうかと。
「じゃあ、なんで……?」
 だから少しだけ、淡い期待をしてしまった。
 もしかしたら自分はこの王子になんの見返りもなく求められたのではないかと。
 そんなわけないのに。「俺を助けるため」に呼んだと言っていたのに。
「説明した通り、赤い髪の一族には毒を無効化する力があった。もしその一族がまだ生きているのならその力も引き継いでいるのではないかと、セシルは文献を読んでそう推測した。俺の身体も限界が来ている。藁をも掴む思いで赤い髪の一族の生き残りがいないか、誰にもバレないように捜してようやくおまえを見つけたんだ」
 綺麗な赤だと彼は言った。昨夜、ベッドの上で。
 それだけでシアンの心は絆されていた。目立って仕方ない、お荷物なこの赤い髪を褒めてくれた唯一の人だから。
「赤い髪の一族の体液だ」
「たい……えき?」
「唾液、汗、涙……精液。おまえから出る全ての液体が毒を中和させる」
 そこまで説明されてようやくシアンはこの城に連れてこられた理由を理解した。
(そりゃそうか……)
 これで納得した。
 そんな利用方法がなければ奴隷を相手になんてしない。
(おかしいと思ったんだ)
 奴隷も赤い髪も同じ国の民だと言っているけれどしょせん、王族にはわからない。奴隷として生きている者たちの苦しみなんか。
「オレは、王子が食事をするたびにその体液とやらで、毒を中和すればいいのか?」
「ああ」
 体液を摂取するのに一番簡単な方法が口付け。だから王子は事情を知るセシルの前でも平気でシアンに口付けをしたのだ。
 そこに愛情なんてものはない。それはただの治療だった。
「口付けはわかるけど……なんでオレを抱いたんだ……? それって必要なのか?」
 唾液だけでは足りないから精液を、というのなら身体まで繋げる必要はない。口付けだって他にもやり方があるのではないか。
「必要があるから抱いた」
「……そうか」
 そう言われてしまうと何とも言えない。
 そこにシアンの同意はいらない。シアンが嫌だと言っても王子はシアンを使って毒を中和する。そしてそのためならば奴隷だろうと赤い髪であろうと抱くのだ。
 ――王子が、シアンのことを何とも思っていなくても。
 それなら、髪の色を褒めたりしないでほしかった。
 優しい手つきで触れてほしくなかった。
 香や香油など使わずに無理やり抱いて、痛めつけてくれた方がマシだった。
 少しでもそこに優しさや甘さを感じてしまい、淡い期待を抱いてしまったから、そんな丁寧な扱いに慣れていないシアンはたった一晩の睦言で王子に心を許してしまった。
 誰にも入らせたことのない奥まで王子の侵入を許して、人の肌の温もりを知ってしまった。
「協力する代わりに、条件がある」
「なにだ、言ってみろ」
 セシルが眉間に皺を寄せて明らかに嫌な顔をしたけれど、シアンは構わずに続けた。
「王様になったら、奴隷の待遇をよくしてほしい」
「もちろんそのつもりだ。奴隷制度自体、なくすつもりでいる」
「必ず、約束してほしい。それが条件」
 すぐに奴隷の待遇が良くなるなんて楽観視はしていない。けれどいつかこの国から奴隷がいなくなって、みんなが平等に暮らせるなら。
「いいだろう。そのあかつきにはおまえにもそれなりの身分と財を与えよう」
 そんなもののために協力するわけではないが、それは王子には黙っておこう。きっと、伝えたところで王子を困らせるだけだ。
 この心が王子に惹かれて後戻りできないことなど。
「オレは別に何もいらない。でも、もう王族同士が殺し合いするような国にはしないで。家族なんだから仲良くしてほしい」
 シアンが持ち合わせていない血の繋がりのある親類同士が諍いあい、殺しあうのは見たくない。
 それがこの国を統治する王族ならばなおさら、仲良くあってほしい。
 王子のこれからの未来が光に溢れた世界であってほしいのだ。
「わかった。善処しよう」
「うん、お願い」
 王族同士が仲良く暮らして継承者争いがなくなれば、毒を盛られることもなくなる。
 そうなったら毒を中和することも必要なくなり、赤い髪の一族の中和の力もいらなくなり、自分も必要なくなって王子から離される。
 口付けも、抱かれることも、触れられることもなくなる。
 その時、頼りになる家族がそばにいれば王子もきっと心強いはずだ。
 だから今は、王子のそばにいよう。
 王子にも誰にも知られないように、この心の奥に住み着いた小さな温もりはそっと隠したまま。

 

   ***


 
 その日からシアンはセシルの元で作法や国の歴史、文字などの勉強をすることになった。
 セシルの教え方は丁寧でわかりやすく、シアンは知らなかったことをたくさん学んだ。奴隷のままなら一生知ることのなかった読み書きは特にためになった。今まで興味があっても読めなかった本が少しずつだが読めるようになったのだ。
 セシルが勉強用に持ってくる本はシアンのレベルに合ったものばかりで、どれも面白かった。この国の普通の子供なら誰しも読むだろう本だとセシルから聞いた。
 一方、作法の勉強は苦手だった。手づかみでパンを食べるくらいしかしてこなかったから、ナイフやフォークを持つと緊張してしまう。肉を上手に切ることはできても、小さな豆や果物を器用に切るのは至難の業だった。
 王子は毎日、食事が終わるたびにシアンに与えた部屋にやってくる。
 その顔色は酷く悪く、そのまま倒れてもおかしくない。それを気力でなんとか部屋まで歩いてやってきてはシアンに口付ける。
 何度もそれを繰り返すたびに唾液を吸われるのは慣れてきたが、胸のドキドキは回数を重ねるほど強くなった。
 唾液を摂取したあとの王子は顔色も良く、毒を食らったとは思えないほど元気だ。その姿を見るたびに自分には本当に毒を無効化する力があるのだと実感する。
 自分では全くわからない。唾液は唾液だし、汗はただの汗だ。試しに自分の汗を舐めてみたが特別美味しいわけでもない。
 それでも王子は夜になるとシアンをベッドに誘い、香を焚き、冷たいその手で優しく肌を撫でるのだ。
 耳元で何度も赤い髪が綺麗だと囁かれるたびに勘違いしそうになる。王子は毒を治療するためだけに自分を抱いているだけなのに。
 ことが終わると王子は死んだように眠る。
 いくら毒を中和しても身体には少なからずダメージが残っているのかもしれない。完全には毒を無効化できてないのかと心配になる。
 そんなシアンの心配は朝になるとただの杞憂だったとホッとする。
 ぐっすり眠って、起きた王子の顔色はとても良くて生命力で漲っているからだ。
(そういえば妻にするって言ってたけど、あれってなにだったんだろ)
 その場限りの戯れ言だったのだろうか。どういう意味か訊きたかったけれど、答えを訊くのも怖かった。
「最近、毒の量が増えたみたいだ」
「え、増えたってどのくらい?」
 その日の夜も王子はシアンの部屋へやってきた。中和のための口付けは食事のあとすぐに部屋にやって来て済ませてある。あとは寝るだけだ。
 王子はシアンを抱く日もあれば、何もしない日もある。何もしない日は眠りにつくまでその日あった他愛のないことを話したり、セシルに教わった勉強がどこまでかなどを話したりする。
 抱かれなくても普通に会話が出来るだけで楽しかった。こんな日常、奴隷の時には考えたこともなかった。
「俺がどんなに毒を盛っても平然としているからだろうな。料理の味にまで影響するような量を入れてきている。相手も焦っているんだろう」
「そんな……大丈夫なのか? 致死量を入れられて死んだらオレにもどうにもできないんだけど……」
「確かに死んだら意味がないな。ところでテーブルマナーは完璧に覚えたか?」
 テーブルの上に置いてあった水差しからグラスに水を注いで一気に飲み干す王子に、シアンはふるふると横に首を振った。
 少しは様になってきたけれど、完璧とまではいかない。セシルの前では緊張せずできるけれど、他の人の前ではきっと失敗してしまうだろう。
「これからはシアンも食事に参加しろ」
「えっ、オレも!?」
「最近、噂も流れはじめた。今が良い機会だろう。おまえを王族の連中に披露する。すぐそばで食事をしていれば俺に万一のことがあっても対処できるだろ」
 対処とは王族の面々の前で王子に口付けをしろということか。想像しただけで嫌な汗が出る。
 ここに来てからこの部屋と湯殿以外で出入りした部屋はない。セシルから外には出ないように言いつけられているからだ。せめて王族にばったり出くわしても焦らずにやり過ごせるようになるまでは、と。
「噂って、どんな噂?」
 良い噂でないのは確かだろう。なんせ一国の王子が奴隷を部屋に囲って、そこに寝泊まりしているのだから。それに食事が終わるたびにすぐにここへやって来るのだから、シアンがおとなしくしていても目立つ。
 王子が足繁く通う部屋だと。
「この国の王子はあろうことか男に惚れ込みうつつを抜かしている、今に囲っている男のわがままをあれこれ聞いて国を破滅させるだろう、と」
「なにそれっ」
 王子が自分にうつつを抜かすなんてあり得ない。既に何度か抱かれてはいるけれど、彼は行為中は優しくしてくれるが朝起きたらそれが夢だったのではないかと思えるくらい普通なのだ。
 毎回、焚かれる香のせいで甘く感じてしまうだけで、その効果が切れれば王子にとってシアンはただの治療薬。
 抱かれるたびに勘違いしそうになり、朝起きて現実を思いしる。そのたびに心が擦り切れそうになる。
「その噂を利用して毒を盛っているのが誰か炙り出せたらいいんだが……」
「どうやって? 盛ってるのは何人もいるんだろ?」
「俺の予想では大元は一人だ。そいつが陰で何人にも唆しているんだろう。自分だけ安全な場所から高みの見物をして、あらゆる毒を俺で試しているんだ。相手は相当、口のうまいヤツだな」
「じゃあ、そいつを捕まえたら毒は盛られなくなる?」
「おそらくな。まあ、今まで尻尾を出さなかったのだからそんな簡単にはいかないとは思うが」
 上手くいけば自分はそこで用無しになるな、とシアンは一瞬だけ横切った考えを振り払った。
 王子の命が奪われないならそれでいいではないか。
 無事に国王になったら奴隷は今よりいい扱いが受けられるのだから、それだけを目的に協力していく。そう決めたのだ。
「さ、もう寝よう」
「うん」
 蝋燭の火をいくつか消して薄明かりにすると王子はベッドの中に潜り込んだ。シアンもその後すぐに王子が横になるベッドの隣に入る。
 王子に背を向けて目を閉じる。何度同じベッドで寝ても、この瞬間だけは慣れない。
 抱かない日は自室で休めばいいのにどうしてこの部屋に来るのか。この部屋が王子の部屋なのかとセシルに訊ねたこともあるが、王子にはこの部屋よりも広くて警備の行き届いた自室があると言っていた。
「シアン」
 不意に名前を呼ばれ、肩に王子の冷たい手が置かれた。
 今夜は何もしないと思っていたシアンは、思わずビクリと肩を揺らした。
「な、なに?」
 王子に背を向けたまま返事をすると、肩に置かれた手が髪に触れた。
「こっちを向け」
 言われてゆっくりと王子の方へと向きを変えると、薄暗い中にぼんやりと紺碧色の瞳が見えた。
 シアンはこの瞳に弱い。初めて顔を合わせた時に感じた、吸い込まれそうな視線。
 心の奥に隠した温もりが、透けて見えてしまいそうで逸らしたいのに逸らせない。ずっとその瞳に見つめられていたい。
 このまま、溺れるように吸い込まれたい。
「……王子……?」
 じっとシアンを見つめてくる王子の瞳に操られるようにシアンは手を伸ばして、金色のその髪に触れた。王子がいつもシアンにそうするように、優しく丁寧な手つきで。
「どうか、した……?」
 黙ったままシアンをただ見つめるだけで、何もしてくる様子もない。
「常に命を狙われていると、夜もぐっすり眠ることはできない」
 しばらくの沈黙のあと、王子は絞り出すように声を出した。
「寝ている間に遅効性の毒が効いて、そのまま目が覚めないかもしれないと何度も考えた。その一口が俺を死に追いやるかもしれないと……」
「……王子」
 それまでは王位継承など関係ないところで生きていた。当然、二番目の兄が継承するものだと誰もが思っていたし、それに異議を唱える者もいなかった。
「前に、抱く必要があるのかと訊いたな」
「うん……」
 今まで見たことのない頼りない表情に思わず髪に触れていた手で王子の頭を撫でた。王子はそれを払いのけることもせず、シアンの胸に顔を埋めた。
「……ずっと怖かった。いつまで毒に耐えられるか。この身体はどのくらい毒に蝕まれてしまったのか。毎日、気が気ではなかった。毒と解毒薬の副作用で体調も悪い。でもそれを表に見せるわけにはいかない。俺は強くなければ」
 胸の上で王子が小さく震えているのを感じた。
 本当の王子はそんなに強くない。ノアという存在はつい最近までただの第三王子でしかなかった。王位に興味もなく、兄が即位したのちは新王の支えになれたらと考えていた。
「精神的にも追い詰められていたこともあって、誰かを抱いて気を紛らわすなんて思わなかった。このままでは俺もいつか近いうちに毒にやられて二番目の兄のようになると……」
 王子の中にあった不安が自分にも流れ込んでくるみたいで、シアンは王子をギュッと抱き締めた。
 自分よりも体格のいい王子の背中に回した腕は細すぎて、こんな腕では彼を守れないと口惜しくなる。
「でも、おまえが見つかった。いるかいないかもわからない存在の赤い髪の一族。文献に書かれていたより綺麗な赤い色」
 胸から顔を離して、王子はシアンの髪にまた触れた。
 髪が綺麗だと言われると胸がときめく。ドキドキと高鳴る。
 王子にそう言われることが何より嬉しいのだ。
 たとえそこに深い意味はなくても。
「シアン、おまえに毒を中和する力があるかどうかをまだ試す前……この部屋で初めて会ってその髪を見て確信した。おまえなら大丈夫だと」
「大丈夫って、なにが……?」
「おまえに中和する力がなくても、俺はあの日、おまえを抱いていた。おまえがどんなに嫌がってもだ」
 赤い髪に口付けが落とされる。
 王子はこの髪が好きなのだろう。この赤い色が。
 では、その髪の持ち主のことはどう思っているのだろう。
「毒から楽になりたいと思っていた。けれどそんなことよりもおまえを抱きたいと思った。それが、おまえを抱く理由だ」
「それって……」
 シアンの声は王子の唇によって塞がれ、それ以上なにも話せなくなった。
 いつもよりずっとお甘い、蕩けるような口付けをされてシアンはすぐに何も考えられなくなってしまったからだ。
 香を焚いたわけでもないのに、その口付けは今までのどの口付けよりも甘く痺れ、舌を絡ませながらまさぐられる肌は粟立ち、香油を垂らされた身体は熱く火照る。
「シアン、名前を呼んでくれないか……」
 王子のささやかな願いに腰を揺さぶられながら喘ぐシアンは必死にそれを叶えようと息を吸った。
「ノ……ア……」
「もう一度……」
「んっ……あっ……ノアっ……ノア……」
「シアンっ……」
 その日の営みはどこか哀しく、どこか切なかった。
 そんな弱い部分を見せてくれた王子が愛おしくて、シアンは何度も王子の名前を呼んだ。
 彼が少しでもその哀しみや切なさを癒やせるように。
 毒以外のものも中和できればいいのにと祈りを捧げながら、名前を呼び続けた――。
 
 

   ***


 
「いいですか。くれぐれも粗相のないように、教えた通りにやれば上手くいきますからね」
 翌朝、早くからセシルが侍女を数人連れてやってきて今までの復習だと言ってテーブルマナーを再度たたきこんだ。
 その横で侍女たちがシアンにさまざまな色の衣装をあてては、ああでもないこうでもないと相談しあっている。
 王族へのお披露目は昼食時にすることになった。
 昨晩の王子との行為の余韻に浸る隙もないまま、起こされ湯殿に連れていかれ隅々まで洗われた。他人に身体を洗われるのはすっかり慣れてしまっていたが、行為の最中につけられたであろう口付けの跡が身体に残っているのに気が付きいたたまれない気持ちになった。
 跡をつけるなんて今までなかったのに、昨晩の王子は幼い子供のようだった。
 行為が終わったあとも処理もせずにシアンに抱きついて眠ってしまった王子の寝息を聞きながら、頭を撫で続けているうちにシアンも眠ってしまった。
 王子は起きた時にはもうベッドにはいなかった。朝いないことはたまにあったが、今朝は少し寂しく感じた。
「王族の方々は気難しいですから、なにを言われても黙っていなさい。王子が答えるまで何も言わないこと」
「挨拶もなし?」
 セシルは最初の頃はいつも眉間に皺を寄せて、ため息ばかりついていたが最近はなにかを諦めたのか眉間の皺はなくなった。
 自分で見つけ出した文献にあった王子を助ける赤い髪の一族の末裔が、まさか奴隷だとは思わなかったのだろう。
 王子が足繁く通うとは予想していなかった、と思わず愚痴をこぼしていたのを聞いたことがある。
 セシルからしてみれば大切な王子の命が狙われている上に、男に惚れ込んでいるなどと噂されれば従者として面目もたたないのだ。
「王子が代わりに貴方を紹介します。それにあわせて丁寧に頭を下げれば問題ありません。とにかく、必要以上の会話はしないように。いいですね?」
「……わかりました」
 その方が自分も粗が出なくて助かる。付け焼き刃のマナーだけではたくさんの王族の前で通じない。奴隷だと知られれば王子の立場も悪くなる。それだけは避けたい。
「セシル、オレ絶対失敗しないよ」
「シアン?」
「オレだって王子の立場を悪くしたくない。オレができることならなにでもする。だって王様になってほしいもん」
「そうですね……」
 食事の場には王と王妃は来ないとセシルから説明を受けた。二人は仲違いしてから自室で食事を摂ることが多いらしい。
 王様に会うのはさすがに緊張するのでシアンはホッとしたが、それなら王子も自室で食べられないのかと疑問に思った。
「王の弟君――王子の叔父上にあたるハリス公が王族の親睦を深めるためにと、食事は出来るだけ王族同士集まって摂ろうという決まりになったのです。それまでは顔も知らない親族がいたくらいですから。おかげで顔を知れた方々も多いはずです」
「へぇ……」
 けれどそれが裏目に出て、王子は食事のたびに毒を盛られているのだから決して良いことだけではない。
 食事の際の席順は決められていて、身分の高さの順に座る。王と王妃はほとんど来席しないので、実質一番身分が高いのはノア王子ということになる。
 二人の兄は療養中で王宮にはおらず、気候の穏やかな地で暮らしている。
「王族以外でその席に座ることができるのは稀です。今回も異例中の異例。次期国王のお相手を見定める席なのだと覚悟して臨みなさい」
 釘を刺されてシアンはゴクリと喉を鳴らして生唾を飲んだ。
「席順が毎回同じなら、毒も簡単に入れられるってことか……」
 王子が食事をする部屋に来る前に誰かが入れることは十分可能だ。それ以前に料理を作る者が王子の食事にだけ毒を盛ることもできる。給仕をする者、従者、侍女。一回の食事で王子の食べ物の中に毒を入れる機会がある者は数え切れない。
 それがもし、一人の黒幕によって何人もが唆され、複数の毒を食事に混ぜられていたとしたら。
「第二王子がいつから毒を盛られていたかは定かではありませんが、少量を一食ごとに混入されていたのでしょう。ノア王子が体調不良を訴えはじめたのは第二王子がお倒れになってすぐ。首謀者は王位継承者を一人ずつ手に掛けていっています。王子が倒れたら次は……」
「王子が倒れることはないよ。そのためにオレがいるんだから」
 正直、自分に毒を中和する力が本当にあるのかよくわからない。口付けで王子から毒を吸い取っている感じもしないし、ただ体液を与えているだけだ。
 それでも王子はそのたびに顔色が良くなるし、朝起きた時の王子は機嫌も良さそうに見える。
 自覚はないけれど王子の役には立っている。それがシアンの自信になっている。
 何もできない奴隷の頃とは違う。求められている。体液や身体だけかもしれないけれど、確実に王子の命を救っている。
「絶対に毒で殺させたりしないから」
 そもそもやり方が陰険すぎるのだ。毒でじわじわと、だなんて苦しんでいるのを見て面白がっているとしか思えない。
 そんな相手に王子を殺させたりしない。
「それは頼もしいですね」
 初めてセシルの笑った顔を見た。嬉しくなってシアンも笑った。
「では、食事の際、困ったことがあれば王子以外ならハリス公を頼りなさい」
「王子の叔父さんを?」
「ハリス公は大変温厚な方で、その上とても賢い方です。現国王を支える大臣の一人としてその知識を発揮されていますし、新王になった世でもきっと支えになってくれるお方です」
「わかった」
 とにかく、今日の昼食の時に顔を見ておこう。今後どうなるかはわからないが、セシルが信頼を置く人物だ。きっと何かと助けてくれるだろう。
 侍女がようやく衣装を選び終え、シアンはほとんど強制的に着替えをさせられた。
 いつもはあまり派手なものは嫌だと言うと、渋々承知してくれる侍女たちも今日は絶対に譲らないと目を血走らせている。
 彼女たちはシアンのことをとても可愛がってくれている。王子のお手付きになったというだけでかなりの特別待遇を受けているのはシアンも気付いていた。
 侍女にもその機会はあるはずなのにシアンの世話をしてくれる侍女たちは妬みもしないで毎日、甲斐甲斐しく服を着せて髪を結う。
「すっかりここの生活にも慣れてきましたね」
 セシルが着替えさせられているシアンを見ながらしみじみと呟いた。
「全然慣れないよ。服だって汚したらどうしようって毎日ハラハラしてるし、身体は自分で洗いたい」
 そう言うとあからさまに侍女たちが落ち込んだ表情を見せたのでシアンはなんだか申し訳ない気持ちになった。
 奴隷として生きていた時は温かいお湯に浸かることなんてなかった。凍えそうな寒い日でも水を浴びていた。あまりにも寒いと水を浴びることもなく、何日も身体を洗わなかった。
 それが今では毎日、温かいお湯が溢れるほど入った広い浴槽で両手両足を伸ばしてゆっくりできる。こんな贅沢を覚えたら、いざお役御免になった時、どうなるのかと心配になる。
 王子は一生、贅沢な暮らしができると言ってくれたがそれは女性の場合だけではないのか。子も残せない同性のシアンが同じお手付きの女性たちと仲良く暮らせるとは思えない。
 毒を盛った首謀者が捕まったあとは、奴隷と同じように下働きや雑用をしてなんとか暮らせたらと考えている。
 本音は、王子のそばにいたいけれど。
「準備はできたか?」
 着替えを終えて、綺麗に髪を結い、セシルと侍女たちが部屋から退室したあと、部屋の窓際に座ってぼんやりと外を見ていたシアンのもとに王子がやってきた。
 立ち上がったシアンの頭から足の先までじっくり見た王子はフッと笑って見せた。
「上出来だ」
 スッと伸ばされた手の意味がわからず王子を見ると、少し顔が赤い気がした。
「王子、顔色、赤いけど……調子悪い?」
「おまえは鈍感すぎる」
 深いため息をついて王子がシアンの手を取った。
 ベッドの上以外で手を繋ぐことなんてなかったから、驚いて目を大きく開いた。
エスコートするから手を離すな」
「は、はい……」
 恥ずかしくて、くすぐったい気持ちになる。
 手に変な汗をかいてしまって、王子に気持ち悪がられていないかと不安になり横に並んで歩き出した王子をチラリと見上げる。
 横から見ても端正な顔立ちをしている。金色の髪がふわりと靡くのがとても綺麗だ。
 その紺碧の瞳はまっすぐ前を見据えている。
(なにを見ているのだろう)
 シアンには王子が見ている世界を見ることも感じることもできない。彼には大きな使命があって、それを全うしなければならない。
 必要とされる限り、彼の力になりたい。毒を中和することしかできないけれど。
 侍女たちが選んだ明媚な髪飾りが歩くたびに揺れる。
 裾の長い衣装を踏まないように王子に手を引かれてゆっくりと歩く。
 長い廊下の途中でセシルが待っていた。王子に恭しく頭を下げると、王子の前に立って歩く。
 仰々しくて息が苦しくなる。
「いつもこんなふうなの?」
「なにが?」
「なんだか行進みたい」
 前にはセシル、後ろには侍女たちに挟まれて歩く。食事に行くだけで大仕事だ。
 クッとおかしそうに吹き出す王子に、なにかおかしなことを言ったかと首を傾げる。
「一応、王子様なんでね」
 あ、そうか、と言われて納得する。王子なのだから護衛や従者がたくさん付くのは当たり前なのに、頭からすっぽりとそんなことは抜けてしまっていた。
 王子だということも、いつか国王になるということもわかっているのに、シアンのそばにいる時の王子はいつも無防備だ。
 それはいつでも毒を治療できる人間が一緒にいるからなのか。
 単純に王子の周りの従者たちに信頼を抱いているからなのか。
 ここに来てすぐの時はピリピリしていた空気も今ではあまり感じなくなっていた。
 セシルは小言は多いがシアンが疑問に思ったことを訊くときちんと答えてくれるし、世話をしてくれる侍女たちはいつも優しい。食事後の王子は辛そうだけど、治療し終えると気分が良いのかシアンのくだらない話にも笑顔を見せてくれるようになった。
 少しずつこの生活が楽しくなってきている。
 毒を盛られるという問題さえなければ、きっと王子はもっといろいろな顔を見せてくれるのではないか。それが叶う時に必要とされていれば、だけれど。
「着きましたよ」
 細かい装飾がなされた扉の前でセシルが立ち止まった。
 一瞬、ピンと緊張の糸が張る。
 繋いでいた手に力を込めた。
「大丈夫、いつも通りでいろ」
「いつも通り……うん」
 いつも通りってなにだったっけ、と既に混乱しはじめているけれどなにがあっても王子がフォローしてくれると信じている。フォローされないように上手く食事を終わらせたいけれど。
 扉が開かれる。瞬間、飛んでくる痛いほどの視線の数々。好意的な視線は一つも感じられない。
 それは王子に向けてもそうだった。
 王子とシアンに交互に視線を投げては、皮肉めいた笑みを浮かべる王族たちの面々。
 二十人ほどいる王族たちは既に自分たちの席に腰を掛けている。
 中へ進むと後方で扉が閉まる音がした。
 長方形のテーブルには湯気のたった料理が所狭しと並べられているのに、空気は酷くひんやりとしていて鳥肌が立った。
 たくさんの視線を浴びながら王子に促されて部屋の一番奥、上座の席に並べられた二つの肘掛け椅子のうちの一つに座らされる。王子もすぐにその隣に座り、給仕がグラスに飲み物を注ぎにやってきた。
 王族たちの視線も痛くて気になったけれど、それよりも目の前に並んだ食器と数々の料理に目がいった。
 セシルに学んだ通りにやれば間違いはない。わからなくなったら王子のまねをしておけばなんとかなる。
(焦るな。焦るな)
 何度も唱えて、息を吐く。
 隣に座る王子を見ると怖いくらいに無表情で、寒い部屋が余計冷えたように感じた。
 王子の前に並ぶ料理は、他の王族たちと同じものであって同じではない。この中にはもう毒が仕込まれているのだろう。
 誰かがそれぞれの目を盗み、毒を入れて素知らぬ顔をしている。
 ここは小さな戦場だ。一人対その他全員の。
 こんなところに一人で毎食、毒が入っているとわかっているのに――。
 テーブルの下で見えないように拳を作った。
 親のいないシアンにとって家族や親類というものは温かくて優しい場所だと思っていた。いつも笑いあいながら食卓を囲むものだと。
 少なくとも第二王子が毒で倒れる前まではでそうであったのだと苦しい心のよすがにする。
「さぁ、みんな揃ったみたいですね、食事にしましょう」
 立ち上がった中年の男性がグラスを片手に言うと、シアンに向けられていた視線は料理へと移った。
 緊張で喉がカラカラだったシアンはグラスをとって水を飲み干した。
 おなかは空いているのに、喉の奥が詰まったようで給仕が取り分けてくれた大皿料理になかなか手をつける気にならなかった。
 そんなシアンをよそに王族たちは囁き声で食事をしながら会話している。
 王子に至っては平然な顔で次々に料理を口に運んでいた。そこには毒が入っているのに、ためらいもせずに。
 強い人だ。そして物凄く負けず嫌いな人だ。
 だからこそ昨夜見せた弱さがシアンの胸を締め付ける。
 王子としての彼は強く正しい存在でなければならない。その一方でノアという一人の存在は臆病で死ぬことを怖がる、普通の人間なのだ。
 テーブルに並べられたナイフとフォークをおもむろに手にして、取り分けられた料理をさらに小さく切る。セシルに教わった通りに、丁寧に綺麗に。
 小刻みに手が震えていたけれど、絶対に誰にも悟られないように強めにナイフを握った。
 優雅に、誰かを誘惑するみたいに口に運ぶようにとセシルは言っていた。優雅はわかるけれど、誘惑の意味がわからずに何度もやり直しをした。
 結局、練習では誘惑の意味を理解できずに一度もセシルからの合格はもらえなかった。
 けれど今は理解できる。このたくさんの王族たちの食べ方を見ていたらなんとなくだが理解できた。
 全員の視線を感じる。マナーの悪さを非難しようと目くじらを立てているのが。
 そんな意地悪なヤツは全員、料理ろ一緒に食ってやる。
 口の中に料理を入れる瞬間、わざとゆっくり王族たちを見回した。舐め回すように、けれどしっとりと艶やかで少し気怠げな雰囲気を醸し出して。
 これがセシルの言う誘惑かどうか、正解はわからないが王族たちはシアンから目を逸らせなくなっていた。
 一口食べて咀嚼している間も、なるべく口の中でゆっくりと味わった。飲み込む際も焦らすように飲み込んだ。
 正しいマナーなど知らない。これが自分のやり方だ。
 料理の味なんて感じなかったけれど、牽制にはなった。
 囁き声でザワザワしだした食卓で、真ん中あたりに座っていた女性がコホンと咳払いとした。
「それで……ノア王子。そちらの方を紹介してくださらない?」
 セシルより少し年上だろうか。唇に引いた赤い紅が似合っていなくて、思わずそこに目がいった。
「これは失礼しました。この者は私の妻として娶る予定のシアンです」
 この発言に王族たちはさらにざわついた。
 そんな紹介の仕方をするとは思っていなかったシアンも食べていた野菜を吐き出しそうになるくらい驚いた。
「妻って……正気でおっしゃってるのかしら」
 違う席から今度はやけに派手に着飾った中年の女性が慌てて訊ねた。
「正気ですよ、問題でも?」
 挑発するように口元に笑みを浮かべる王子を、ハラハラしながら見ていると小さく肩が震えていた。
 王族たちに怯えて震えているようには見えない。その目は強い光を宿したまま、全員を睨んでいる。
「問題だらけだ!! そいつは男だろう!?」
 恰幅のいい男が耐えきれないといったふうに叫んだ。
「そんなどこの馬の骨かもわからない男を娶るだと!? 王子はこの国を潰すつもりか!!」
 言っていることはもっともだとシアンも思わず頷きそうになった。
「世継ぎのことならどうとでもなります」
「ならないから言っているんだ!」
 王子がどうしてそこまで妻というものにこだわるのか、シアンも疑問だった。
 ただ単に、この場を混乱させて黒幕を炙り出す作戦ならばいくらでも話を合わせられるが、王子は会ったその日からシアンに妻になれと言っていた。
 その真意を訊く機会はいくらでもあったのに、訊けなかったのはその答えがシアンの望むものと違ったらと臆病になってしまったからだ。
「まぁまぁ、皆さん、落ち着きましょう」
 冷静な声で王子との言い合いを止めに入ったのは、最初に食事の始まりを告げた男性だった。
 全員が戦々恐々とする中、一人涼しげな顔でその場を観察していた男性を王子は「叔父上」と呼んだ。
 叔父ということはこの人がハリス公か、と顔をじっくりと確認する。現国王の弟。確かに少し王子と似ている顔付きだ。
 セシルが信頼を置く相手。それだけではなく、王族の誰もが彼の一言で騒ぐのをやめた。
 この中で一番、発言力を持ち合わせているのが彼なのだろう。
 温厚で賢い人。セシルの言う通りなら彼はこの場をどう収めるつもりだろうか。
「ノア王子はまだ若い。恋愛に溺れるのも若さゆえ。手練れの男娼に骨抜きにされるのも致し方のないことです」
 シアンは我が耳を疑った。
(どこが温厚だって?)
 思い切り王子とシアンを卑下した台詞に怒鳴りつけて否定したい衝動をグッと抑えた。
 ここで感情任せになにかを言えば余計、王子の立場を悪くする。
「熱病のようなものです。少し時間が経てば熱も冷めて落ち着くでしょう。皆さんの心痛、よくわかりますがここは若い王子の後学のためにも見守ってあげようではありませんか」
 自分だけが馬鹿にされるなら耐えられる。しょせん、奴隷育ちだ。今までだって侮蔑の目で見られてきたから慣れている。
 けれど、王子が馬鹿にされるのは我慢できない。それも自分をそばに置いたせいで、馬鹿にされるなんて。
 しかし今ここでできることは何もない。悔しくて唇を噛みしめていると王子の額から一筋、汗が流れた。
 ハッとして王族たちを見ると王子の流した汗には気が付かず、シアンを横目で見ながらひそひそとあざ笑っている。
 笑われるくらい平気だ。男娼と言われても痛くもかゆくもない。
 今はそんなことより、確実に毒を含んで冷や汗を流す王子の治療をしなければ。
 このままではこの場で倒れてしまう。いつもより顔色も悪い。震えもだんだん、強くなってきている。
 今までずっと食事の場で弱ったところを見せずにいた王子を、自分が隣にいる今日この時に見せるわけにはいかない。
 これは自分に与えられた試練であり、使命だ。
 そう思うと身体が勝手に動いた。
「王子、わたしは王子に食べさせてほしいのですが、ダメですか?」
 猫なで声で周りなど気にせず王子の腕にそっと手を置いて上目遣いで見つめる。
 男娼だと言うのならそれを演じて見せよう。
 甘えてしな垂れる、誰をも虜にする赤い髪の男娼に。
「ああ、構わない」
 王子は自分用に並べられた器から煮込み料理に入っていた鶏肉をフォークに刺してシアンの口元に運んだ。
 シアンはそれを一口で食べて、すぐに飲み込んだ。毒の味はしないけれどシアンに出された同じ煮込み料理とは明らかに味が違った。毒を入れたせいで味が変わったのだ。
 自分に毒を中和する力があるなら、どんな毒を口に入れても中和できるはず。ならば飲み込んだ方が早く中和できる。
 突然、目の前で食べさせあいをし出した二人をけしからないという目で見る王族たち。その中の何人が焦っているだろう。王子に食べさせるはずの料理をシアンが口にしたのだから。
 これでもし、シアンが体調不良を訴え心配した王子が医師に診せ毒だとわかれば王子の食事に毒が混入されていたことが表沙汰になってしまう。
 今まで王子だけだったからこそ大事にならなかったものが、王子が選んだ妻候補まで巻き込めばどうなるか。
「王子、次は口移しでお願いします」
 ニコリと微笑み、席を立つとシアンは王子の膝の上に座って首に腕を巻き付けた。
「王子に無礼だぞ!!」
 野太い男の大声にそちらを見て、シアンは強気に笑んだ。
「無礼とは、なんのことでしょう? わたしは世間知らずですのでなにが無礼なのかわかりません。教えていただけませんか?」
 言いながらフォークで鶏肉を刺し、王子の口元に運ぶ。
 王子がそれを口に含んで、少し噛んでからシアンに口移しする。
 素早く飲み込むと、まだ口の中に鶏肉があるように見せかけながら深く口付けて唾液を王子に吸わせる。
 端から見れば恋人同士が口付けをしているだけに見えるその行為。
「王子、戯れもほどほどにされてはいかがですか」
 ハリス公が静かに、しかし低く怒気を込めながら言った。
「無礼ですよ、王子は今、わたしと食事中。それにただの熱病ではありませんか。見守ってやるのが御尊老の役目では?」
 王子を守るためなら何も怖くなかった。
 毒からしか守れないけれど、ここで今すぐ治療のための口付けができるのならセシルが信頼を置くハリス公でも関係ない。
 王子の命を守るためにここに来て、心にそっと温もりを住まわせたのだ。今ここで何もできなければいる意味がない。
 口付けを再開して、王子の震えが止まるまでそれを続けた。誰がなんと言おうと、呆れた表情をしようとどうでも良かった。
 王族全員を敵にしても怖くない。
 怖いのは王子が毒で死んでしまうことだ――。
「このままその男娼に好き勝手させるのであれば、王位継承について考え直さなければなりませんな」
 馬鹿馬鹿しいと次々に席を立って部屋をあとにしようとする王族たちにわざと聞こえるようにハリス公は声を張った。
 全員がピタリと足を止め、王子とハリス公を見やる。
 治療が終わって顔色の戻った王子がシアンを膝に乗せたまま真面目な顔をして、王族たち全員を見回し、最後にハリス公を見据えた。
「叔父上、私を王位継承候補から外すと言うのですか?」
「外すなど、私の権限ではできかねます。しかし、皆が王子に不満を抱けばそうなってもおかしくはありませんよ。どうか王位継承者として賢明であられるように」
「賢明、とは? 人を恋い慕うことは賢明ではないと?」
「そうではありません。そのような身分の卑しい者を娶るような愚行はなされますなと言いたいのです」
 しんとした空気に二人の声だけが響く。
 張り詰めて今にもはち切れそうな糸の上を歩いている気分で王子の膝の上で卑しい男娼の真似事をし続けるシアンは、平気な顔で王子にしなだれかかる。
「しかもその者は男。どうやっても子は成せないのです。誰が認めるというのですか。王家の血を絶やすおつもりか。それならばどうか継承の権利を放棄なさってからにして頂きたい」
 空気がさらに張り詰める。王位の継承の権利、その言葉が出るたびに。
「さて……私が継承権を放棄したとして誰が次期国王になると? まだ幼い弟二人ですか? それはさすがに無理でしょう、なんせまだ一歳の子と乳飲み子。だとするとその次の候補は……」
 一体何人、国王には子供がいるんだと呆れてしまったが、いつ誰が暗殺されたり病気で伏せるかわからない。子供は多い方が国王としては安心なのかもしれない。
「ああ、叔父上になりますね」
 含み笑いでハリス公を見た王子に、ニヤリと口角を上げて答えないハリス公。
「ですが、私は放棄などしませんよ。どんな妨害があろうと必ず次の王になってみせます」
 言い切ったところで王子はシアンを抱き上げて席を立った。突然、立ち上がるので落ちそうになりながらもなんとか平然な顔を崩さずに王子にしがみついた。
「そろそろ失礼します。シアンがもう飽きたようなので」
 踵を返して早足でその場を去る王子。その肩越しからシアンはハリス公と目が合った。
 ハリス公は怪しげな笑みを浮かべたままシアンを見ていた。すぐに視線を逸らしたシアンとは対照的に、部屋を出るまでの間いつまでもハリス公の視線はシアンを追っていた。

 


 王子に抱きかかえられたまま部屋に戻るとベッドにそっと下ろされた。
 そしてそのまま王子もベッドに寝転がり一つため息をついてから、クスクスと笑い出した。
「おまえさ、度胸ありすぎだな」
 寝そべったままこちらを向いた王子は笑いが止まらないようで、シアンは緊張していたことが馬鹿らしくなって思い切り伸びをした。
「じょーだんじゃないよ、ホント。オレ、かなり頑張ったよ?」
 我ながら演技が上手いと自分で自分を褒めてあげたい。
「まさか、あそこまでやるとは」
「必死だったんだよ! あんた、今にも倒れそうだったし、不自然にならないように治療しなきゃって」
「熱烈な口付けだったけど?」
 子供のような笑顔を向けられてシアンの頬は赤くなった。
 王子はきっと気が付いているのだ。自分が王子に好意を抱いていることを。
 だけどこの気持ちは声に出してはいけない。あくまでも毒を治療するためだけの存在でいなければ。
「悪かったな、男娼なんて屈辱だっただろう」
 不意に、優しい眼差しを向けてくるから胸が苦しくなる。そんな眼差しをされると気持ちが言葉になって口から出てきそうだ。
「別に……もともと、奴隷だし。侮辱されるのは慣れてる。オレよりも王子が男狂いに見られたんじゃないか?」
「そこは狙い通りだ。おまえは気が付いていないだろうけど、あの時の叔父上とのやり取りに何人が足を止めて目を光らせたと思う?」
「そんなの見てる余裕なかったよ」
 治療するためにどうにかしようと必死で周りの王族まで気にしていられなかった。
「おまえの顔を見るために王族のほとんどが顔を出したからな。唆されているのが何人いるかの見当はついた」
「ホントに?」
「まぁ、証拠がないから何もできないけどな。牽制にはなったはずだ。これからは毎回、食事に同行してもらうことになる」
「ええ!? いやだよ!」
 あんな殺伐とした空気の中に毎食放り込まれるなんて、想像しただけで胃が痛くなる。
「って言ってもオレの役目だから、仕方ないか。そのために呼ばれたんだし」
 毎回、王族のあの痛い視線を受けながら食事をするのは辛いが王子のためならなにでもやると決めたのだ。
「……そうだな。そうだったな……」
 綺麗に結われたシアンの髪を解いて頭を撫でる王子は、少し寂しそうに笑った。
 なんでそんな顔をするのかと問いたかったけれど、なんとなく聞けなかった。
「あ、そういえば」
 話題を変えるためにわざと明るい声をあげてみる。王子はもう寂しい目をしていなかった。
「ハリス公ってセシルから聞いてた感じと違うんだけど、一体なんであんなに敵対心むき出しなわけ?」
 困ったことがあったらハリス公を頼れと言われていたが、あれは完全にシアンを邪魔者として見ていた。あんな態度をとられたら頼ることなどできない。
「叔父上は、悪い人ではないんだ。長男だという理由だけで王になった父にずっと虐げられていた。それも側室が産んだ子だからという理由だけで。けど、叔父上は努力して今の地位にいる。だから王族同士の軋轢には人一倍敏感で、悪い種は早めに摘もうと常に目を光らせている」
「だからってあんな言い方、王子を馬鹿にしすぎじゃない?」
「俺たち兄弟は正妃の子供だし仲もいいからな。叔父上は面白くないんだよ。生い立ちを思えば仕方ないことさ」
 それでもあのハリス公の王子を見る目は異常な気がする。王子は気が付いていないのかもしれないが、あの目は奴隷で働いていた頃によく見た目だ。
 今まで奴隷として仕えてきた主人や、奴隷を侮蔑している人間。そんな人間の目は表では優しく見えているのに、その奥には冷徹なものが潜んでいる。
 ハリス公の目も、それと同じだった。
 それが生い立ちからくるものなのか、シアンに向けられた敵意なのか。もしくは両方かもしれない。
「今、あの人はおまえに溺れて身を破滅しそうになっている俺を見極めている。もし俺が愚王にでもなったら許さないだろう」
「それもさ、フリだってわかってるんじゃないかなぁ?」
「なんでそう思う?」
「なんとなく……そんな目をしてたから」
 わけなんてない。ただの勘でしかない。または奴隷の時の記憶がそう思わせているのかもしれない。
 王子やセシルはハリス公の生い立ちに同情しているのだ。ハリス公が国のためと思って発言していると信じている。
「叔父上は王位なんて狙ってないさ。父とも王と家臣としての一定の距離を保っている。それに俺の下にも弟が二人いるんだ。叔父上が玉座につきたいと思っているならこの弟たちをどうにかしなければならない」
「でも弟ってまだ小さいんだろ? そんな小さい子、どうにでもなるんじゃ?」
 まだ一歳と、乳飲み子なんて毒を使えばあっという間に死んでしまう。毒を使わなくても簡単に始末できる。
 もちろん、その前にノア王子がいる。
「やけに叔父上を目の敵にするな。そんなに男娼扱いされたのが嫌だったか?」
 心配したのか王子が髪を撫でてくれた。くしゃくしゃになった前髪の隙間から王子が覗き込んでくる。
「別に大丈夫だってば」
「そうか?」
「そうだよ……」
 血の繋がりのある者同士の無条件の信頼感。それを逆手にとられないように自分が気をつけなければとシアンは気を引き締めた。

 


 シアンが食事の席に出るようになって、同席する人数が少しずつ減っていった。
 参加は強制ではないので、たまたま来られないのかと思っていたがそのまま人数は減っていき、五日目の昼食時にはハリス公の他に席に着いたのは四人になっていた。
 そしてそれに合わせるように王子の食事に盛られる毒の量も減っていた。
 初めて同席した時のように口移しだと言って治療をすることもなく、王子の体調もすこぶる良さそうだった。
 今、顔を出していない王族はほとんどが黒幕に唆されていたのだと王子は言った。
 そして王子とハリス公の次期王位継承者についてのやり取りを聞いて、身の危険を感じたのだと。
 シアンが毒を口にしたことで大事になるかもと恐れたのと、王子が「必ず、王になる」と発言したことからこれ以上の妨害は危険だと察したのだ。
 毒が盛られなくなればシアンの役目はなくなる。
 今はまだ敵も様子見をしている状態だが、この先どうなるかはわからない。すぐにお役御免と言われて奴隷に戻ることはなさそうだが、時間の問題だろう。
(そうなったらちゃんと割り切れるかな……)
 毒の治療のための口付けも軽いものになってきた。食事に毒が入っていないこともあった。
 それでも王子は用心のためか必ず毎食後に唇を深く重ねてきたし、夜はこの部屋に来て眠る。
 身体も毎晩ではないが繋げている。
 抱きたいと思ったから抱いたと告げた王子を拒むことはシアンにはできなかった。治療以外で王子のそばにいられる唯一の時間だから。
 あとどのくらい、この肌に触れてもらえるのか。赤い髪を梳いてくれるのか。
 娶るなど、王族たちに男狂いになったと見せかけるための嘘なのだろう。その説明をシアンにするのを王子はうっかり忘れているのだ。
 どうやったって男の自分を次期国王が娶れるわけはないし、王子には世継ぎを作るという使命もある。
 一時の王子との関係を今のうちにしっかり記憶しておかなければ。
 そのうちきちんとした身分の女性を王妃として迎えるのだから、これ以上深く求めないように。
 いつでもパッと消えてしまえるように心の準備をしておかなければ――。
「シアン、お客様ですよ」
 窓際に座って外をいつものようにぼんやりと見ていたシアンに、部屋の掃除をしていたセシルが声をかけた。
 掃除くらい自分でできると言っているのにセシルには掃除への並々ならぬこだわりがあるらしく、手伝いすら許されない。
 勉強と食事の時間以外は部屋から出ることもなく毎日、窓際に座って外を眺める。
 お披露目をしたから外に出ても構わないと王子に言われ、一度セシルとともに外に散歩に出てみたが王宮で働く者たちにもいろいろな噂が流れているらしく好奇の目で見られ、早々に部屋に戻った。
 自由がないのは奴隷の頃から慣れている。むしろ奴隷の頃より待遇がいいから不自由とは感じない。部屋にいればいつでも王子を迎えられるし、治療もできる。今のシアンにはそちらの方が大切なのだ。
「誰?」
「ハリス公です」
「え……?」
 部屋の扉を見るとハリス公がにこやかに立っていた。セシルはなぜかわくわくしている。
「シアン殿、今日は良い天気ですよ。庭園を見に行ったことはありますか? 私が作っている薬草園を見に行きませんか」
 なぜこの人に誘われるのかわからない。食事のたびに顔を合わせているけれど、いつも不敵な笑みをこちらに見せるだけで何も言ってこない。
 離すことと言えば他愛もない談笑だ。
「あの、でも……」
 一人でハリス公に着いていくのは危険な気がする。この人の目はほの暗くて苦手だ。
「セシルも一緒なら……」
「とんでもありません! どうぞお二人で」
 変なところで気を遣うセシルにシアンは気付かれないようにため息をついた。
 行きたくない、とは言いづらい雰囲気だ。断ればセシルの機嫌を損ねそうだし、ハリス公の本性を探るにはいい機会かもしれない。
「わかりました……」
 いそいそと外に出る準備をしてくれたセシルに何も言えず、髪が目立たないようにとフードを被らされる。
 ハリス公と一緒にいるだけで人の目を引く。それがノア王子のお気に入りの男娼とわかれば、また余計な噂が立つ。
 王宮には女性がたくさん働いているから、噂話の宝庫だ。シアンがここに来て耳にした噂はどれもこれも眉唾ものばかり。
 例えば、王の第四子と第五子は王の子ではないだとか、第一王子には隠し子がいるだとか、第二王子は一度暗殺されそうになったとか。
 王宮で働く者たちは王宮の外に出ることは自由だがなかなか時間がない。それ故のストレス発散方法なのだ。王族たちも噂だけなら大目にみているみたいだ。その王族も噂話が好きだから同じ穴の狢ではあるが。
「王子とはどうやって知り合ったのですか?」
 王宮の長い回廊を抜けて裏側にある庭園まで歩いて行く。後方にはやや距離を置いてハリス公の従者が控えている。
 窓からは王宮の表側しか見えないので裏側を見るのは初めてだ。他のどの扉よりもこぢんまりとした小さな扉をくぐり抜けるとすぐ目の前にはたくさんの花が咲き、緑溢れる庭園が現れた。
「どうやって……って言われても……」
 何も聞かされずに連れてこられたとしか言いようがない。
「あちらに私の趣味の薬草園があります」
 質問に答えられずにいるとすぐに話題が変わった。
 人の顔色や態度を見てすぐさま対応の仕方を変えてくれるのは楽だ。こういうところがハリス公への信頼に繋がるのだろう。
 薬草園は庭園の端にひっそりと作られていた。
 屋根付きであちこちから太陽の光が入るようにできている。
「なぜ薬草を?」
 薬草を育てるには手間暇がかかる。庭園の花たちもよく手入れがされていた。
 王宮なのだから庭園管理専門の人間がいてもおかしくはない。その人はよほど草花が好きなのだろう。どれも誇らしげに咲いている。
「花を育てたりするのが子供の頃から好きでしてね。ここの庭園で土いじりばかりしていたんです。そのうち第一王子が産まれ、身体が弱いとわかり薬草にも手を出したらすっかりハマってしまったというわけです」
 苦笑するその表情は柔らかなのに、目の奥はやはり笑っていなかった。
 良い天気なのにシアンは薄ら寒くなりフードをしっかりと被り直した。
 薬草にも花にも詳しくはないけれど、ここの薬草がよく手入れされていて大切に育てられているのが見て取れた。
 薬草の中には使い方によって毒になるものもある。ここで育てた薬草で毒を作っている可能性を疑った。
「その赤い髪は、生まれつきですか?」
「え……」
「古い文献に赤い髪の一族がいたと書かれていたのを思い出してね。君はそれに関係あるのかな?」
 答えるかどうか悩んだ。その文献はおそらくセシルや王子が読んだ文献と同じものだ。だったらその赤い髪の一族の体質も知っている。
 ハリス公が毒を盛っている黒幕ならシアンは邪魔な存在でしかない。
「……ノア王子も、その文献を読んだと言っていました。それでオレを探し出したと」
 一か八かの賭けだ。これでハリス公がどう出てくるか。
「ノア王子は幼い頃からロマンティストだったから、初代国王に憧れたのだろうね」
「どういう意味ですか?」
 おかしそうに、どこか懐かしそうにハリス公は微笑む。
「赤い髪の人間を娶れば自分も初代国王みたいになれると思っているのかもしれない。立派に育ったと思ったけれど、まだまだ子供だなぁ」
 薬草の手入れをしながら、フフと声を出したハリス公。
 遠回しに、王子はシアンに惚れているのではなく憧れを形にしただけだと言っていた。
 おまえなんかには王族の長い歴史に勝てはしないのだと。
 そんなことは最初からわかっている。けれど他の人に言われると傷付く。
「ハリス公」
「はい、なにでしょう?」
「王子の食事に毎回毒が盛られているのは知っていますか?」
 薬草を手入れする手を止めてハリス公はゆっくりとこちらを向いた。その顔はもう笑っていなかった。
「王子の食事に? それは本当ですか? 誰がそんなことを?」
「王子本人です。だから王子はオレを探し出した。――毒の治療のために」
 心臓がバクバクとうるさい。
 少し離れたところにハリス公の従者が控えてはいるけれど、味方ではない。今ここでシアンになにかあっても誰も助けてくれない。
「赤い髪の一族に毒の無効化の力があるとは書いてあったが……まさかそれを信じて探し出したと? 本当に君にその力が?」
 冷たい声だった。
 気味の悪い、闇を背負ったような。
「では……君にこれを飲ませても、平気だと?」
 ポケットから出した小さな小瓶にはいかにも毒の色をした液体が入っていた。
「これは?」
「たった一口で、一瞬で死ねる毒です」
「なんでそんな物持ってるんです? 物騒ですね」
 そんな毒を盛られたら隣にいても治療が間に合うかどうか。
 その毒を王子に使われたくない。
「薬草を煎じるうちに毒も作れるようになったんです。もしこれを飲んでも君が平気なら、その力が本物だと信じましょう」
「別に信じなくてもいいですよ。王子が信じてくれてますんで」
 毒の入った食事を食べても平気だったから自分の身体の中に毒を取り込んでも中和されるのはわかっている。しかし一口で死ぬ毒を飲むのはリスクが高すぎる。
「では、その王子の食事に入れたら?」
 思わずシアンはハリス公を睨んだ。この人ならやりかねない。そう感じてハリス公の手から強引に小瓶を奪った。
「飲んでもいいですよ。でも代わりに答えてくれませんか?」
「飲んで、平気だったらいいですよ」
 小瓶の蓋を取って中身を覗いた。お世辞にも美味しそうとは思えない。
「王族を唆して毒を盛らせたのは貴方ですか? 第二王子もそうやって毒を盛っていたんですか? その時は上手くいったみたいですけど、ノア王子は絶対にそうさせませんから」
 キッと睨み付けると、冷酷な目がシアンを鋭く射貫いた。
 ビクリとしたが負けるわけにはいかなかった。
「どうぞ、飲んでください」
 手が震えて小瓶の中の液体が揺れる。
 ふぅ、と息を吐いてシアンはその毒を飲み干した。
「まずっ」
 一瞬で死ぬならもう効果が出ているはず。けれどシアンの体質はそれを無効にする。もしかしたら時間差で効いてくるかもしれない。
 怖い。今まで生きてきてこんなに怖いのは初めてだ。
 この体質で王子を助けてこられたことを誇りに思う。これで死んでしまっても後悔はしない。
「さぁ、答えてください。貴方が毒を盛らせていたんですか?」
 ハリス公は大きく目を見開いた。
 毒が効いていないのを見て驚いている。
「……本当に、効かないのか……」
「だから……そう言ってるでしょ……」
 効かないはず。だけど身体が、胃の中が酷く熱い。今にも吐いてしまいそうなくらい気持ち悪い。毒の中和が間に合っていないのかもしれない。
「……毒を盛らせていたのは……」
 目が回る。立っていられない。呼吸が苦しくなってきた。
(オレ、このまま死ぬのかな……)
 しかし、それでも構わない。もう王子に盛られていた毒は減って、食事の場も崩壊している。王子は自室で毒の盛られていない美味しい食事を口にできる。
「そう、私が毒を盛らせていた。第二王子もそうだ。とても残念だ。継承権を放棄すれば命まではとるつもりはなかったのに」
 やはりハリス公が――。
 これを王子に伝えなければ。
 だけど――目の前が暗くなってきた。何も見えない。今、自分が立っているのか座っているのか。それとも倒れているのかもわからない。
(王子に……つたえなきゃ……)
 シアンの意識はそこで途絶えた。

 


 どのくらい眠っていたのか、目が覚めるとそこは暗い地下のようだった。
 カビ臭い匂いが鼻につく。微かに蝋燭の灯が揺れている。
 冷たい石の床の上で寝ていたらしく、身体中が冷たく、どこからか水が漏れているのか服も髪も少し濡れていた。
 起き上がろうとして、両手両足に鎖の手錠を掛けられているのに気が付いた。
 気を失ってハリス公に捕まってしまったのだ。なんて間抜けなのだろうと唇を噛んだ。
「気が付きましたか?」
 暗い中にハリス公の声が響いた。よく目をこらして見てみると壁にもたれて腕を組むハリス公の姿があった。
「さすがにあの毒を飲んで平気ではいられなかったみたいだね」
「……あんな不味い毒、二度と飲みたくないね」
 王子を守れるならこの命を投げ出しても構わないと覚悟していたけれど、ハリス公の所業を王子に伝えるまでは絶対に死ねない。
 この身体はどうやらどんなに強い毒でも死ぬことはない。王子を治療することもできて、自分にも効力がないのなら毒に対しては無敵だ。
「それで、オレをどうするつもり? 殺す?」
「そうだねぇ……」
 足音をさせて近付いてきたハリス公が目の前までやってきた。なんとか起き上がって立ち膝でハリス公を下から見上げると、グッと赤い髪を掴まれた。
 強引に髪を引っ張られ、その痛みにシアンは顔を歪ませた。
「おとなしく毒に蝕まれることに怯えて王位継承権を放棄しておけば良いものを、おまえみたいな者がいるから計画が台無しだよ」
 そこにはもう温厚なハリス公はいない。いや、最初からシアンに対してハリス公は温厚な人柄を一度も見せていなかった。
 赤い髪の一族が本当に毒を無効化できるのかずっと疑いの目で見ていたのだろう。そして実際に毒が効かないとわかり、本性を出した。
「計画って……? あんた、王様になりたいの?」
 もう敬うことも礼儀を気にすることもない。こちらも素のままで返事をする。
「あの兄とその子供がいる限り、私は王にはなれぬ。王になるのは私はではない、私の子供だ」
「は……? あんたの子供って、継承順位かなり下だろ?」
 ノア王子が継承権を放棄したとして、その下にはまだ二人、弟がいる。
 第二王子と第三王子が相次いで毒に侵され継承を放棄したとなれば、その下の弟たちの警護は今より強化され簡単には手を出せなくなる。
 その二人を始末してハリス公の子供が継承するとなると、他の王族や臣下たちが黙っていないだろう。
「私の子は今、一歳。継承順位は二番目だ」
「え……?」
 頭が混乱してきた。なんで現国王の子供を抜いて、弟の子供が二番目の順位になるのだ。
「兄の小さな子供二人は兄の子ではない。第四王子と第五王子は私と王の側室の間にできた子だ」
 まさか、侍女たちの噂話のうちの一つが本当だったとは。
 驚いているうちに髪を掴む手が離され転がされると、ハリス公は腰に帯刀していた剣を抜いた。
 暗い中に剣が鋭く光る。
「兄は義姉を心底愛している。だから側室を作ったりはせずに今まで来た。そんな兄が侍女に手を出したとなれば長年一緒にいた義姉は傷付き引きこもる。兄は妻の機嫌を直そうと必死になり、私の偽装工作まで頭がいかない」
 手口はとても簡単だった。酒の弱い王に強めの酒と睡眠効果のある薬草を入れて飲ませ、眠り込んだところにハリス公の手付きの侍女を横に寝かせておくだけ。
「朝起きた兄が青い顔をしていたのが滑稽だったよ。信じられないことに一国の王が今まで王妃以外抱いたことがないのだから。ほしいものはいくらでも手に入れることのできる国王が、だ」
 後は手付きになったとして側室に召し上げ、たった一回の共寝で懐妊したことにすればいい。同じ手を使って二人目の側室を召し上げれば、まだ王に心が残っていた王妃の愛情もなくなる。
 王と王妃の仲が良くなければ、そのギスギスした空気は周りにも伝わる。
 食事の席にも二人は来なくなり、権威の目がなくなったその席では王子の食事に毒を混入させることに躊躇していた王族も、感覚が麻痺して何度も毒を入れるようになる。
 人の心を操るのはハリス公にとってはとても容易なことだった。
 幼い頃から虐げられて育った彼には、王族の汚い仕打ちをたくさん見てきた。
「なんでそんな面倒くさいことを……。自分が王になればそれで十分じゃないのか?」
 何年もかけて、こんなやり方で自分の子供を王につかせるより、ハリス公ならもっと上手く周りを動かして玉座を手に入れることができたはずだ。
「側室の子供がどんな仕打ちを受けて育ったか……君にはわからないだろう」
「……酷い目にあっていたってのは聞いた。でも努力して今の地位にいるって」
「努力だけじゃどうにもならないこともあった。兄は私を嫌っているからね。側室の子供なんて汚らわしいと面と向かって言われた私の気持ちは私にしかわからない」
「確かに。オレにはあんたの苦労はわからないよ……でもわかることもある。オレはここに来る前まで奴隷だったから……」
 セシルが見つけなかったら今もまだ奴隷として生きていた。綺麗な服を着て、髪を結ってもらうことなんてなかった。
 王子を恋い慕うことすら――。
「そうか、君は奴隷だったか。男娼にしては色気がないと思っていたが、奴隷なら納得だ。だったら君にもわかるだろう。同じ人間なのに人間扱いされない非道さが」
 同情の目で見られて哀しくなった。
 同じ苦労してきた人間だと言っても、ハリス公は衣食住に困ったことはないだろう。虐げられたといっても奴隷ほどではない。
「色気なくて悪かったな」
 精一杯、色気を振りまいていたつもりだったが全くハリス公には通用していなかった。それが悔しく、少し恥ずかしい。必死に演じていたのに。
「側室の子が王になる。それが私の兄への復讐であり、野望だ。――だから、ノア王子が王になっては困るのだ。私の子がもう少し大きくなるまでは兄が王でいてくれなければ。そして王が退位した時に真実を兄に暴露する。さぞ絶望するだろう……それが私の望み」
 その前に正妃の子供たち三人を排除する。一人目はもともと身体が弱く、何もする必要はなかった。問題は第二王子と第三王子。
「私が首謀者だと知られないようにするのは簡単だ。王族たちは自分の利益しか考えてない。この王宮でどれだけ贅沢に生きていけるかばかり。だからこう言った。あの兄弟は仲が良い。その中の誰かが次期国王にでもなれば今の王室の体制を変えて王族を王宮から追い出すつもりだと。贅沢に慣れた王族たちは慌ててどうにかしようとする。そこでそっと囁く」
 ――少しずつ食事に毒を盛ればいい。
「命を王族に狙われていると知れば継承権を放棄するだろう。敵は王族のほぼ全員だ、どうにもできない。そう助言しただけ。あとは各々が毒を用意して食事に入れただけ。第二王子はこれで上手くいったのに、おまえがいるせいで王族たちは尻込みしてしまった。本当に邪魔な存在だ」
 なんて歪んだ感情なのだろう。冷たくてずる賢い、自分の復讐のためなら誰でも利用する怖い人。
 そんなに兄である王が憎いのか。半分は血が繋がっているというのに。
 幼い頃から虐げられて育つとこんなにも性格が歪んでしまうものか。
「オレには……親も兄弟もいない。産まれた時に奴隷商に売られたらしい。主人がそう言ってた。親に売られたのか、それとも盗賊にでも襲われて誘拐されたのか。全く何もわからない。オレには何もない。だから羨ましいよ、半分でも血が繋がっている家族がいるんだから」
 多くの奴隷仲間は同じような境遇ばかりで、それが普通だった。みんな、何も持っていない。空っぽだ。
 なんの目的もない。ただ毎日の仕事をこなすだけ。
「では、こうしよう」
「なに?」
「私の元に来なさい。その体質、このまま死なせるにはもったいない」
「は……!?」
 剣の切っ先がシアンの頬に触れた。ひんやりと尖った刃に自分の顔が歪んで映った。
「なんであんたのとこなんかに!! 絶対、嫌だね!!」
 似た境遇だから同情でもしたのか、それとも利用価値があると思ったのか。
 なににせよ王子の命を狙っている人間に飼われるなんて屈辱でしかない。
「ならば価値はないな」
 頬に触れた切っ先がシアンの赤い髪を雑に切った。
 パラパラと赤い髪が石の床に落ちていく。
(王子が……綺麗って言ってくれたのに)
 ベッドの上の王子はいつも甘く優しい。
 毒を治療するためだけに呼ばれ、抱きたいと思ったから抱かれている。そこに愛情はないはずなのに身体を重ねている瞬間は愛されているような錯覚に陥る。
 空っぽの自分の中を王子が埋めてくれるみたいで、幸せでたまらない。
 こんなバラバラになった髪を見たらもう王子は綺麗だと言ってくれないかもしれない。そう想像するだけで哀しくて泣きそうになる。
「王子の命と引き換えならどうだ? 君が私の元に来るなら王子の命は助けよう」
 石の床に散らばった髪を呆然と見ていたシアンはハリス公からのその提案に顔を上げた。
 ハリス公の元に行けば王子は命を狙われなくて済む。食事に毒を入れられることも、暗殺者に殺されることも。
「保証はないだろ」
「君の命を取り引きに使えば王子は継承を放棄するさ。その後、君は私の元に来る。それで取り引き完了。誰も死なず、誰も苦しまない」
「王子がオレなんかの命のために取り引きするわけないだろ」
 この命にそんな価値はない。
 たとえ王子が取り引きに応じたとしても、ハリス公の元へなんて行きたくない。それなら新死んだ方がマシだ。
 それに王子には王になって、奴隷制度を変えてもらわなければいけない。
 王子との少ない絆の一つがその約束なのだから。
 自分がいなくても王子にはセシルもいるし、守ってくれる下臣もいる。どんなに邪魔されても王子は必ず王になる。
 ならなきゃいけない人だ。
「死んでも嫌だね」
 挑発するように舌を出して睨み付けた。
「ならば二人とも死ね」
 振り翳された鋭い剣。
 両手両足の鎖が邪魔で自由に動けないシアンはもうダメだと覚悟を決めて目を閉じた。
(なるべく痛くないように一回で終わらせてくれ!!)
 それくらい祈ったって罰は当たらないだろう。
 どうか王子が王に即位できるように。そのためなら多少痛くても我慢するから、絶対にハリス公の思惑通りにしないでくれと強く願った。
 ――キン、と甲高い音が響いた。
 覚悟していた痛みがいつまで経ってもなく、シアンは恐る恐る目を開けた。
「……王子……?」
 目の前にはノア王子がハリス公の剣を自分の剣で受け止めていた。
 これは夢ではないかと、何度も目を瞬かせる。
「おまえ……なぜここが……」
「叔父上……残念です」
 ハリス公の顔がみるみるうちに怒りみ満ちたものに豹変する。
「叔父上の従者一人を取り込んで見張らせてました。貴方は国のことを一番よく考えていると信じていました」
 ハリス公の剣を振り払って、そばに控えていた兵士たちに目配せすると兵士たちは素早くハリス公を取り囲み捕まえる。
「なにをする!! 離せ!!」
 怒鳴り散らす声とともに兵士たちに連行されていくハリス公の声がどんどん小さくなっていく。
 しばらく呆然としたまま、ハリス公の怒号の反響を聞いていると王子がシアンの前に膝をついて髪に触れた。
「王子……なんで……」
「おまえが叔父上をやたら気にしていたから動向を調べさせていた。まさかこんなことになるなんて……」
「オレのなんとなくの勘を信じたの?」
「おまえの方がハリス公のことを理解していると思った。間に合って良かった……」
 髪に触れていた手がシアンを引き寄せ抱き締めた。
 冷えていた身体がふわりと温まる。
 王子の匂いがすぐ近くでする。心臓の音が聞こえる。何度も閨で感じた匂いと鼓動。
 ――この命を守れて良かった。
 これでもう王子が命を狙われる心配はない。
「薬草園で倒れたおまえを叔父上がここに運んでいくのを見張らせていた従者が気付いてあとをつけた。その後連れていかれた場所を確認し俺に報告してきた。遅くなってすまない。怖かっただろ?」
「……そんなことない。本物の王子様みたいだった」
 ホッとすると身体の冷えが戻って来た。毒の副作用なのか意識が再び遠のいていく。
「俺は本物の王子様だよ」
 フッと笑う王子に安堵してシアンはそのまま王子の腕の中で意識を手放した。

 

    ***

 

 シアンはその後、熱を出して三日寝込んだ。
 その間に王宮はいろいろと変わっていた。
 国王の第四、第五王子の母親であり側室として召し上げられていた二人が真実を告白したことではハリス公は幽閉。全ての証拠が整い次第、裁判が執り行われ今後のことが決まる。
 ハリス公の子供たち二人はまだ幼くなんの罪もないため、王位継承権を剥奪されたものの王宮にてこの先も変わらぬ暮らしが保証された。
 側室たちは王族が管理している僻地の小城へと別々に送られることになった。それでは可哀想だと王妃が嘆願し、彼女らの子供たちも一緒に小城への移動が決まった。
 仲違いをしていた王と王妃は和解し、やる気をなくしていた王はまだまだ退位はしないと宣言。それに伴い王族たちのこれまでの好き勝手な暮らしを見直し、ハリス公に唆された王族たちは王宮の外の別宅で暮らすことになった。
 一方、奴隷制度は何も変わらないまま。
 奴隷制度は長く国に染みついた制度のため、一日や二日でどうにかなる問題ではなく、次の王の時代にまで持ち越すことになるだろうとセシルから教えてもらいシアンも納得した。
 すっかり元気になった頃、バラバラに切られた髪を侍女が切りそろえてくれた。侍女は何度も髪を切られたことに腹を立ててシアンよりも哀しみ、「髪は女の命なのに」と文句を言った。代わりに怒ってくれたことでシアンの気持ちはかなり救われた。
 王子は毎日、時間があるたびにシアンを見舞った。
 短くなった赤い髪を何度も惜しそうに撫でて、一緒に食事を摂った。
 毒の入っていない食事を食べるのは久々だと王子は嬉しそうだった。
 毒の治療のための口付けをすることはなくなり、隣で一緒に眠ることもなくなった。
 身体が全快するまでは気を遣ってくれているのだろうと思っていたが、全快したあとも王子はシアンの部屋で寝ることはなかった。
 もう自分の役目は終わったのだと、窓際に座って外を眺めながら思った。
 毒を治療する必要はない。
 男娼のフリをすることも。必要だからと抱かれることも。
 これから先の自分の身の振り方を一人の時間、ずっと考えていた。朝も昼も、眠れない真夜中も。
 星も月もない真夜中、窓際で眠れぬまま過ごす。
 短い時間だったけれど幸せな時間だった。
 初めて人の肌の温もりを知った。髪を褒められた。未知の快楽を覚えた。
 もう忘れることはできないと思い知った。
 恋しくて、どうしようもない夜があることを知り、胸が押し潰される痛みを知った。
 なにもかも、奴隷でいた頃とは違う。
 それでももうこの部屋に王子は来ない。
 王子の来ない夜はとても長い。静かな夜に王子の熱を思い出して哀しくなる。
 火照りを感じて身体を冷ますために部屋を抜け出し、庭園へ向かった。
 以前そこに足を踏み入れた時はゆっくり見て回ることができなかった。
 月明かりもなく、暗い庭園はたまに吹く風が花々を揺らす音だけしか聞こえない。
(明日、ここを出よう)
 日が昇って明るくなったら誰にも見つからないようにそっと。
 行く当てはない。元いた田舎町に戻っても、また主人が雇ってくれるかもわからない。
 ここに残って下働きでもできればと思っていたけれど、王子の近くにいるとつい期待してしまう。
 治療も何も関係なく、その唇に口付けできる日がもしかして来るのではないかと。
 妻に娶るといった言葉をつい信じ続けてしまうから。
 ここから去ろう。王子が王になるのを見たかったけれど、それはまだしばらくかかりそうだから、どこか遠くで即位したことを耳にしたら会いに来よう。
 その時は遠目で見るだけになるだろうけれど、一目見ることができたならいい。
 最初から遠い人だったのだ。これで元に戻る。
 暗闇に目が慣れてくるとあちらこちらに花が咲いているのが見えるようになった。
 白い花、紫の花、赤い花。色とりどりの花が誰も見られることのない夜にも健気に咲いている。
 この庭園の花になれたらいいのに。
 命の限り咲き誇り、枯れたあとは土に還る。そしてまた芽吹き花を咲かせる。
 そうやって永遠にここで咲き続け、何も語らず何も悲しまず、ただ巡る季節とともに。
(――貴方を見つめ続けるのに)
 寒くなってきて部屋に戻ることにした。
 髪と同じ色の赤い花を一本、手折って。
 王子の瞳と同じ紺碧色の一輪挿しにそれを活ける。
 この部屋にある物は全てセシルと侍女たちが選んだものばかり。物の価値はよくわからないけれど、この一輪挿しをシアンは気に入っていた。
 水を入れると紺碧色が揺らめいてとても美しい。
 まるで王子の瞳が涙に濡れているように見えるから。
 赤い花を活けた一輪挿しを窓際に置いた。
 誰に気付かれなくてもそこに確かに存在していた証しを残したくて。
「綺麗な色の花だな」
 暗い部屋に急に王子の声が響いて驚いて振り向くと、いつの間にかソファーに王子が座っていた。
「お……王子? いつの間に?」
「おまえがその花を窓際に置いた時に入って来たが全く気が付かなかったな。なにを考えていた?」
 こんな遅い時間に王子が来るとは思わず、完全に気を抜いていた。
 そのせいで泣きたくもないのに涙が出てきそうで喉が熱くなって、グッとこらえる。
「何も……考えてないよ」
「寝付けないのか?」
「……少しね」
 火照った身体も冷えて落ち着いた。明日の早朝にはここを出て行く。このまま眠らずに部屋を片付けて何も持たずに出て行くつもりでいた。
「俺も寝付けない」
「そう、なにだ……」
「そうだ。ずっと眠れない。おまえが隣にいないからだ」
 暗闇で見つめた王子の目は一輪挿しの中の水と同じように揺れていた。
「命を狙われはじめてからずっとゆっくり眠れなかったんだ。前にも言っただろ」
「もう狙われてないから大丈夫じゃないの?」
「馬鹿を言うな。眠れないのはおまえのせいだ」
「なっ……なんでオレのせい!?」
 眠れないのなら部屋に来たら良かったのに。来るなとは一言も言っていない。来なかったのは王子の意思だ。
「ずっと来なかったのは王子の方なのに、オレのせいにしないでくれない!?」
 明日去るというのに喧嘩なんてしたくない。できることなら最後に抱いてもらいたい。それは無理な話だろうけれど、思うだけなら自由だ。
「おまえの体調を気遣っていただけだろ!? それにいろいろと手回しをするのに忙しかったんだ!!」
 大声を出した王子に身が竦む。こらえていた涙が今にも溢れ出しそうだ。
 涙をこらえるためにシアンも声を張って言い返す。
「オレはしょせん、ただの奴隷だし王子がもう毒の入った食事を食べずに済むなら用済みじゃないか! オレに優しくして期待させといて今更また奴隷に戻るなんて……」
 違う。そんなことが言いたいんじゃない。
 別にいいのだ、奴隷に戻ったって。王族の生活は自分には向いていないし、王子のそばにずっといられるなんて最初から思っていなかった。
 だけど……。
 一度知ってしまった温もりは、もう消せはしない。
 どうやって忘れろと言うのか。散々、この身体に快楽を刻み込んだくせに。
「オレの役目は終わった。だから王子も部屋に来なかったんだろ」
「シアン……馬鹿を言うな……」
 こめかみを押さえて王子がため息をつき、ソファーから立ち上がりシアンの前までやってくる。
「どうせっ……バカだよ、オレは! 知識もないし流されやすいし、この体質だって普通に生きてたら必要ないものだし! だけどっ、あんたに死んでほしくなかったから! だからっ……」
 セシルにあんなに教わったのに大事な時に限って上手く言葉が出てこない。どうしたらこの胸の苦しみや痛みを、王子への恋しさを伝えられるのか。
 言葉にならない悔しさは涙となって込み上げる。涙なんて見せたくないのにボロボロと溢れてくる水滴をしゃくりあげながら手で拭う姿はさぞ子供っぽく見えただろう。
「シアン……」
「うー……くそ……なんで止まんないんだよ……」
「シアン」
「うるさいなっ! わかってるよ、どうせバカだよ! バカでガキであんたに釣り合わないバカだよ!」
 目を擦って、わんわんと泣くシアンのその手首を掴んで王子はフッと笑った。
「なんで笑うんだよ!」
 泣き顔がそんなに酷かったのか、子供すぎて呆れたのか、いずれにせよ笑うなんてあんまりだ。
「なんでそんなふうに考えたか知らないが、誰がおまえを用済みだと言った?」
「だって……」
「確かに会う前は目的を果たせば解放するべきだと思っていたが、今は違うだろ? 俺は最初からちゃんと言っていただろ」
「なにを……?」
「おまえなら大丈夫だと。妻になれと。俺のものになれと。ちゃんと気持ちを伝えてきただろ」
 シアンから溢れる涙を王子は舌で舐めて拭う。
 もうシアンから出る体液を摂取する必要はないのに、王子のその唇はシアンの目元から額、短くなった赤い髪に口付けていった。
「オレは男だし、子供も産めないし、そんな言い方じゃ全然伝わらない」
「男なのは最初からわかっているし、子供が産めないのもわかっている。言い方は……次からはわかりやすく言う」
 ふんわりと優しく包まれて、それがとても切なくなる。
 王子はこんなに優しいのに、シアンの中には不安の方が大きい。それがなぜなのかはシアンが一番理解していた。
 とても醜い嫉妬が心の中を埋め尽くしているからだ。
「でも王様になったら後継者を残さなきゃいけないよ? オレは……オレは王子が……オレ以外の誰かを抱いて子供を作るのが我慢できない……。おかしいだろ? オレは男だから王子の子供を作れないのに、王子の子供を産むかもしれない誰かに嫉妬してるんだ……。次期国王の隣で王妃になる人を冷静に見てるなんてできないんだ!!」
 そんな光景を見るくらいなら今ここで別れて遠くで思っている方がいい。。
 嫉妬で狂う浅ましい姿を王子に見せたくない。
「シアン……シアン、よく聞け」
 ぐるぐると嫉妬でおかしくなりそうなシアンの頬を両手で挟んで、王子は紺碧色の瞳でジッとシアンの目を見た。
 ゆらゆらと揺れる、水の中のような綺麗な瞳に見つめられてシアンの涙はスッと止まった。
「俺はもともと、男しか愛せない。王になる予定もなかったから妻を娶るつもりもなかったんだ。だけど今はおまえがいる。俺はおまえを妻として娶りたいと思っている。子供は作れないけれどおまえ以外を娶るつもりはこの先、王になってもない」
 王子の告白になんと返せばいいかわからず、シアンは目を見つめたまま次の言葉を待った。
「おまえ以外いらない。おまえを手に入れたくて無理やり抱いた。手付きになればずっとここでおまえと一緒にいられるから」
「王子……でも、そんな……オレは奴隷だから拒否することはできないのに……。手付きにしなくても命令したら……」
「俺は奴隷のおまえを抱いたんじゃない。シアンを抱いたんだ。確かに奴隷だから拒めないとわかっていた。もっと段階を踏むべきところを無理やり抱いたんだから信じられなくて当然だ。始まりは酷かったけれど止められなかった。何度も何度も抱いて俺なしじゃいられない身体にして離れられなくしたかった」
 王子の作戦は大成功だ。この身体は王子が与えてくれる快楽を求めている。
「でも本当は……俺がおまえに溺れているんだ。毎晩ここに通ってしまうくらいに」
「嘘だ……」
 溺れているのはこっちだ。奴隷だから拒めなかったわけではない。香のせいでも香油のせいでもない。
 全ては自分の意思で彼を受け入れたのだ。
 そして自分を受け入れてほしいと願ったのだ。
(最初から、惹かれていたんだ……)
 身分違いだとわかっていながらその紺碧の瞳に溺れた。気が付いた時にはもう手遅れだった。
「嘘じゃない」
「でもっ、でもオレは奴隷でっ……だからきっと王子の足手まといになる。王子が悪く言われる……。そんなのは嫌だ」
「誰にも何も言わせない。そのためにここのところずっと動き回っていたんだ。両親にも兄弟にも、重臣たちにも、反対されないように説得して回ってた。今日やっと一段落ついたから報告しにきた」
 そんなうまい話があるもんか。奴隷が王子のそばで暮らしていけるなんて。
 明日、ここを出て行くと決めたばかりなのに。
「……世継ぎは……」
「問題ないと言っただろ。一番上の兄の子を養子にすることにした。将来的にはその子が王になる」
「一番上……え……?」
 侍女が噂していたことを思い出した。
 ――第一王子には隠し子がいる。
 そういえば第四、第五王子が国王の子供ではないという噂も当たっていた。
 侍女には絶対逆らってはいけない。この先この王宮で暮らすならそれだけは守ろうとシアンは心に強く誓った。
「もう国王にも承諾済みだ。第一王子の子供だ、すんなり了承されたよ」
「じゃあ……なんの問題も……?」
「何も問題はない。あとは、シアン次第だ」
 止まっていた涙がまた溢れてきた。
 答え決まっているのに、言葉が上手く出てこない。
「シアン、答えは?」
 涙を拭った王子の指先が唇に触れる。
「……こういう時、なんて言葉を使うのか、セシルに教わった……」
 いつだったか、文字の練習でどういう時に使えばいいのか聞いた。
「なんて言葉だ?」
「……愛してる、って」
 貴方をとても愛している。
 心から――深く、深く。
「シアン」
 短くなった赤い髪に触れて王子はそっと額に口付けを落とす。
「愛してる――」
 それは、一番ほしかった言葉。
 一生誰からももらえないと思っていた言葉。
 何度も口付けをした唇から唱えられた魔法の言葉。
「王子……」
 答えは言えなかった。
 王子の唇がシアンの唇に重なってきたからだ。
 柔らかい口付けにシアンはそっと目を閉じ、王子に身を委ねた。
 ずっと冷たいと思っていたその手は、今はとても温かくて、そして官能的にシアンに触れている。
 触れられた場所から温もりを感じ、同時に艶めかしく思う。
 もっと触れてほしい。
 髪の先から指先まで。肌のあらゆるところを愛でて、その唇で、舌で、吐息で、行き着く先まで連れて行って。
 短くなってしまった赤い髪をそれまでと変わらず柔らかく撫でて包み込む腕。
「王子はロマンティストだから、初代の王みたいに赤い髪の人間を隣に置きたいんだって……」
 ふと思い出したハリス公の台詞を、なんとなしに呟いた。
 それを聞いた時は少しだけ傷付いたけれど、今は気にならない。王子がこの髪を好いていてくれるなら、どんな理由でも構わない。
 目立つだけで嫌いだった赤い髪を、シアン自身、誇りに思うようになった。
 どんな経緯で赤い髪の一族が衰退したのかは文献には残っておらず、誰にもわからない。
 初代王とその妻に子供がいたら、シアンの運命も変わっていた。
 もしかしたらこの世に生まれていなかったかもしれない。
 生まれていなかったら、王子を助けることができなかった。
「俺がそれだけのためにおまえをそばにおくと思うか?」
 出会ってすぐだったらそう思っていただろう。だけど今は違う。
 王子に心から大切だと思われていると実感できる。
 言葉ではなく、触れ方で。
 感じるのだ、愛されていると。
「ううん、思わない」
 それはとても幸福なこと。奇跡のような出来事。
 王子は微笑みながらシアンを抱きかかえ、ベッドまで運んだ。
 そっとベッドに下ろされると、王子がシアンの頬に触れる。
 シアンの寝着の裾から手を入れて、あらわになった肌に口付けを落としていくその唇が背中へと移動する。
 背筋に沿って舌が這う。
 ゾクゾクと肌が粟立ちシアンは背を仰け反らせた。
「おまえの身体は甘いな。いくら舐めても飽きない」
「んっ……もう、そんなに舐めなくても……」
「どうして? 身体中こんなに甘いのに」
「だって……毒はもう……」
 王子がシアンの体液を摂取する必要はなくなった。この身体を舐め、唾液を貪り、吐き出した欲を飲み込む必要も。
「確かに……毒を治療する必要はない。だからこれは、俺がそうしたくてしてるんだ。必要だから抱いたと言っただろ。おまえを抱きたいから抱いた。この意味、わかるか?」
 服を脱いで逞しい身体をさらした王子にシアンは黙って頷いた。
 治療で抱いていたとずっと思っていた。けれど王子は最初からシアン自身を求めて身体を重ねていたのだ。
 毎日、毎晩、交わることのない日もこの部屋で眠っていたのはシアンへの恋慕からだった。
「あっ……」
 背後から抱き寄せられ、王子の膝の上に載せられると胸の両方の突起を指でつままれ弾かれる。
 幾度となく愛撫されてきたそこはほんの少しの刺激だけで膨らんでしまう。
 自身の中心に熱が集まる。ジワジワと芯を持つ中心からは淫らな雫が滲み出す。
「おまえは俺のものだ」
 ベッドの中で何度も言われた言葉は命令だと思っていた。けれどそれはただの所有欲だった。
「じゃあ、王子はオレのもの?」
「王子としての俺は国のものだ。だから……ノアという存在をおまえに」
 胸がギューッと苦しくなる。幸せで顔が緩んでどうしようもない。
「ノア……」
 一国の王子ではなく、一人の男としての彼を独り占めできる喜びに涙が溢れる。
「シアン……」
 背後から耳元に囁かれて振り返る。
 濃厚な口付けがシアンを蕩けさせていく。
 前を握られ緩く扱かれると、声はもう我慢できず吐息とともに何度も喘ぐ。
「あっ、んっ、は、ぁ……」
 鈴口から雫が溢れて流れていく。王子の手に雫が絡まり卑猥な水音をたてはじめる。
 その音が喘ぎ声とともに部屋中に響き、背中に王子の硬い楔が当たっているのを感じ、後孔が疼いた。
 早くこの熱がほしい。奥まで貫いて夢中にさせてほしい。
 もう既に夢中なのに、まだ心と身体が王子を欲している。
 いつもの小瓶に自ら手を伸ばし、蓋を開けた。
 王子がシアンの身体を隅々まで愛でている間に、小瓶の中の液体を手のひらに落とした。
「ノア、もう……」
 液体を自ら後孔に塗り、指を入れて王子を誘惑する。この中はすっかり王子の形を覚えて、簡単に解れてしまう。
 四つん這いにされ、腰に手を添えられ引き寄せられる。
 後孔に熱いモノが宛がわれ、シアンは期待に吐息を漏らした。
「はやく……」
 腰を揺らして求めると、雄の表情をした王子の紺碧色の瞳が鋭く光る。
 その瞬間、シアンの中は熱で貫かれ、あまりの強い刺激に嬌声をあげて悦んだ。
 何度も貫かれ、弱いところを抉られビクビクと痙攣する。
 いつの間にか達していたらしく白濁がシーツを汚していた。それなのに身体はまだ王子からの快楽を求めている。
「ノア……ノア……っ」
「シアン……」
 互いの名前を何度も呼びあった。思いを重ねるように身体を重ね、王子が放つ熱を奥で受け止めた。
 それは何度も繰り返され、喘ぐ声も嗄れ果て白濁も全て出し切り、体力が尽きても王子はシアンを求め翻弄し続けた。
 激しい行為に意識を手放しかけた時、王子からの口付けが降ってきた。
 愛おしい者を見つめる紺碧の瞳にシアンは小さく囁いた。
「――愛してる」
 そしてまた口付けを交わす。
 


 それはまるで、甘く痺れる毒のような寵愛。
 癖になりそうな、甘い毒の――。